今月の視点、「貧しさ」は時が解決。「卑しさ」は国民の自覚が解決

順番待ちができぬ国民なのか なぜ周囲が注意をしないのか

 2月の電気代の請求書を見て驚いた。ある程度予想はしていたとはいえ、まだ蒸し暑かった昨年10月時の半分であった。ヤンゴンの1月2月の朝晩は例年より冷え込みがきつかったから、この2か月間エアコンとは無縁で、その分ただでさえ高い電気料金が節約できた。  しかし、日本の異常な寒波と降雪に比べれば、ここヤンゴンは天国のような気候だった。朝晩は晩秋のような爽やかさで、日中でも30度前後にはなったが、木陰に入ると初夏のような快適さだった。  ところで、話は変わるが、先般某スーパーのレジでこんな光景を目にした。西洋人と思しき男性が順番待ちをしていて、先客が精算を終わろうとした瞬間、ジュース1本を手にした若者がその西洋人の前にスッ―と割り込んだ。  すると彼は若者に大声で「キープ・ザ・ライン!」( 列に並べ)と叫んだ。若者の心理を分析すれば、かご一杯の商品を抱えた西洋人は精算に時間がかかりそうだから、ジュース1本の自分はすぐに終わるので先に精算してもいいだろうと、自分勝手に考えたに違いない。少なくとも、先に精算してもいいかと、断りを入れて行うならまだしも、突然の割り込みでは外国人なら誰でも間違いなく憤慨する。  しかしその西洋人が怒鳴っても、彼はキョトンとしていて「なんで?」というような表情を浮かべた。意味が解らないという顔をした。一見、小さな出来事のように思えるが、実はこの行為にはこの国全体に関わる根深い問題を含んでいる。ミャンマーではこうした割り込み行為が半ば日常茶飯事化しているからである。  当方だって、行きつけのパン屋さんのレジで精算待ちをしていると、右から左から我先に商品を差し出す人たちを見て、いつも心が穏やかでなくなってくる。しかし当人たちは悪びれた様子もない。そして周囲のミャンマー人はおろか、驚くのは店のレジの人間さえも咎(とが)めたりはしないことだ。極端なことを言えば、この国の国民はこうした割り込み行為を半ば容認しているのではないかとも思えてくる。 目に余るドライバーの割り込み 悪しき習慣の連鎖は続いていく  こうした割り込み行為はドライバーの運転マナーにも如実に表れている。大きな交差点では最大2車線の左折レーンが設けられているが、それでもここが渋滞していると隣の直線レーンからの見苦しい割り込みが絶えない。  そうなると直線レーンの後続車が行く手をふさがれ、たちまち混乱状態になる。このときにもし後続車がスピードを出していたら、間違いなく玉突き事故になっていただろう。そうした危険極まりない行為にも関わらず、なぜ周囲のドライバーたちは諫(いさ)めることもせず、注意すらしないのか。それどころか、交差点にいる交通警官でさえも取り締まろうとする気配はない。  ミャンマーでは昨年から助手席を含めたシートベルトの着用が義務付けられたが、一転してこちらの取り締まりは異常に厳しい。交通警官の方々は、その着用の有無を細かく見ているようで、停車させられ、違反キップを切られる光景を何度か目撃した。  しかし、はっきり申し上げるが、仮にシートべルトを着用していなくとも、これはご本人の安全性への自覚の問題で、他人様を巻き込む事故にはつながらない。違反の重大性を考えたら、無謀な割り込み行為の方が、はるかに取り締まりを強化して然るべきだろう。  それに加え、1台の割り込み車が出ると、そのあとに必ず真似をするドライバーたちが出現する。「あいつがやっているのだから俺も」となるのだ。  これも見ていてさらに腹立たしくなる。いい大人たちが、なぜ卒先して交通ルールを守ろうとしないのか。子供たちはこの光景をきっと目に焼き付けているに違いない。彼らが成長してハンドルを握るようになったら、必ず真似するかもしれぬ。悪しき習慣の連鎖である。仮に左折レーンの最交尾に付けたとろろで、1,2回の信号待ちで済む話だ。たったそれだけの我慢で、悲惨な事故は防げるのだ。時間に追われている社会でもないのに、なぜそれができないのか。こうなると、こうした自分さえよければと考える人たちが本当に卑しく思えてくる。 数字で見るほどこの国は貧しくはない 他者をいたわる国民がなぜ迷惑行為を  GDPという数字上でみれば、ASEANでも最低レベルのミャンマーは、失礼ながらまだ貧しいと言わざる負えない。しかし、この国に長く暮らしていると、数字で見るほど人々の暮らしに貧しさは感じない。飢えて死んだなんていうニュースはついぞ聞いたことがないし、米国と並ぶ寄付大国だったなんていう話もミャンマーに来てから初めて知った。  むろん敬虔な仏教国だからなのだろうが、月給1万円前後の若者たちが、道端で物乞いするお年寄りに小銭を自然に差し出す光景を見て、何度か胸を熱くした。毎年、満月の日に僧侶たちを手厚くもてなす習慣も清々しい。普段でも早朝から列を作って托鉢に出向く僧侶たちを街の人々は温かく迎えて食事などを振る舞うシーンも、初めて目にしたときはかなり衝撃的だった。  だから、これほど他者を思いやり、仏事や奉仕に熱心な人々が、なぜ外国人が嫌う割り込み行為を平然と行うのか理解不能になるし、そのギャップの落差に愕然とする。  もちろん先進国の中でも「卑しい」行為は目にする。最近では先月終了した平昌冬季オリンピックで、アイススケートの女子ショートトラックで、妨害行為で銅メダルに繰り上げになったカナダの選手に対し、失格した開催国の選手のネットユーザーが、そのカナダの選手のSNSに3千件を超す悪質極まりないな投稿をした。  抗議するなら審判にすればいいものを、なぜ国民総がかり的な執拗な攻撃を1人の女性選手に行うのか、これも民度の低さどころか、本当に卑しく映る。少なくとも我々日本人はこうした卑劣な行為を容認する国民ではない。  戦後のある時期まで、日本も貧しかった。当方などは、当時高級品だった1本のバナナを、兄妹5人で分けたこともあった。しかしどんなに貧しくとも、日本の常識をわきまえた多くの親は「人様に迷惑をかけたり、嫌がることはしてはいけない」と、子供に口酸っぱく言い聞かせた。むろん大半の親は、列を乱す子供がいたら、こっぴどく叱ったものである。日本の社会は古来から卑しさを嫌うからである。  他者が嫌がることをしないということは、人間が社会生活を行う上での基本である。これは先進国だろうが途上国だろうが関係ない。だからこの世界の常識的なことができない国民性は、外国人から卑しく思われても仕方がないのだ。  冒頭から記したミャンマーでの悪しき習慣の根本的な解決策は、社会全体で是正していくしか方法はない。「貧しさ」というのは時が経てば少しづつ改善されていく。しかし「卑しさ」は国民一人一人が自覚し、社会全体が意識を変えていかないと、永遠に消え去ることはない。  この国の人々にそれができないとは思いたくない。今からでも遅くはない、そうした迷惑行為を見かけたら、注意してあげる習慣を皆で徹底していかないと、本当の意味で途上国からの脱脚は期待できない。

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