◎導│ミャンマーに貢献する日本人

厳しく辛い「国際医療」の道へ 真の「自立支援」を考え始める

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名知 仁子 Satoko Nachi -内科医師-

こんにちは!ミャンマー・ファミリー・クリニックと菜園の会(MFCG)の代表理事・内科医の名知仁子(NACHI SATOKO)です。今回は第2回目の寄稿させて頂きます。
 2002年、私はノーベル平和賞を受賞したある国際医療団体のボランテイア医師の1員として、活動に従事し始めます。
 この国際医療の世界は98%きつく、厳しい現実がありました。しかし、残りの2%がそのつらさを超える喜びを私に与えてくれました。だから、私は、日本に戻って、再び、発展途上国や紛争地域に医師として参加するのです。一番辛いのは、日本では助かる“命”がそのような環境では助けられない現実があることです!
 その理由は1)薬がない!2)治療できる医療設備がない3)医療水準の違いなどなど様々で、それは1個人にはどうすることもできないものです。特に、私が自分の医師としての原点に立ち還ることができたのは、2002年のタイとミャンマーの国境沿いにある難民キャンプの活動に従事していた時です。
 その難民キャンプにその当時、約3万5千人のミャンマー側から逃れてきたカレン族の難民が住んでいました。この頃、ミャンマーとタイとの国交はあまり良好でなく、軍事政権であったミャンマー側には河沿いに、タイに逃れていく人を監視するような見張り番のような人たちがいるということを同僚から聞かされた記憶があります。

当時、この難民キャンプに、2つの入院施設と3つの外来機能をもつ診療所がありました。ここの施設にあるのは聴診器と点滴と薬、そして顕微鏡が数台だけです。毎朝、我々の医療チーム(私・フランス人看護士・オランダ人臨床検査技師・フランス人物資調達員など)が到着し、キャンプ内の診療所においてキャンプ内で育成したカレン族のメドックと呼ばれる、医師のようにキャンプ内の患者を診る人々と一緒に脚気やマラリアの治療に関しての講義や結核・マラリアの診断について、その技術の向上を目指します。当時、ここには学校がありません。でも、メドックと呼ばれる人の中には英語が堪能なメンバーもいて、私は物凄く驚いたことを鮮明に覚えています。このメドックとよばれる彼らはこのキャンプで生まれ、育ちます。周囲はジャングルで囲まれています。このキャンプに我々のように外部から入るにはタイ政府からの許可が必要なためほとんどの人は立ち入れない状況です。ここで生まれ、育った彼らにその頃は学ぶ場はありません。そのチャンスがないのです。彼らは一生をこの難民キャンプから出られる可能性は殆ど無い状況です。外の世界も知らずに、この難民キャンプ内で彼らは一生を終えます。未来も夢も語れない環境にあります。それでも彼らの生活は存在しています。私はこのような環境が存在していること自体知らなかったので衝撃を受けました。自分のあまりの無知さも考えました!そして世界にはこのような環境で生活している人たちがいることをその後の活動でも知ることになります。

彼らの英語も医療従事者としての技術も歴代のエキスパートと呼ばれる私のような外部者が教え、覚えて、育ててきたのです。彼らにとっても、大人になってから学ぶので本当に本当に大変な苦労をしたと思います。想像してみてください。学校がないため、学んだ経験がない、母国語の日本語しか話せない日本の大人に、他言語を1から教え、数字が読めるようになり、さらに、脈が取れるようになり、最終的に聴診器を使い、人を診れるようになる、地道な努力を重ねていく!すばらしい!。しかし、その大変な努力の過程を!このキャンプにいた、臨床技師のメンバーの中には、2児の母親である人も多く、家庭のこともこなしながら、その勉強をしていたのです。彼らの中には私より、結核を顕微鏡で発見するのが上手な人もいました。私は彼らから学びました!
 「人間は無限大の可能性をもっている!その可能性に制限をかけているのは自分自身なのだ!いつまでたっても成長・学ぶことができるもの!」ということです。これは今でも私の心に刻み込まれています!

また、エチコというメドックは現在も私のお手本です!彼は2児の女の子の父親でもあります。彼は本当に優秀で、6名いたメドックのリーダーでもあります。よく覚えているのは、ある日痙攣した赤ちゃんが連れられていました。もちろん、CTなどもない診療所です。その時、聴診器1本でくだした、エチコの診断は“ビタミンK欠乏症による脳内出血”でした。私は日本ではなかなかあり得ない疾患なので、わかりませんでした。彼の診断を信じ、この赤ちゃんの命を救うために、タイ政府に申請し、タイ側の病院へ搬送する手配をしました。残念ながら、この赤ちゃんは亡くなりました。が、聴診器1本で診るとはどういうことか?を実践で学んだ時です!また、エチコに年齢を聞いた時も忘れられません。なんと、彼は自分の歳を知りませんでした!それは、IDが無く、誰も知らない状況だったからです。すぐに、出生届のシステムをキャンプ内に作りました。

いろいろな国の人が混じって活動をしている国際医療の現場にいると様々なことが学べる機会を得られます。それも、この現場の面白いところの1つだと思います。
 例えば、私が国際医療を始めた頃、所属していた団体はヨーロッパ、プランスのパリに本部があります。一緒に活動したメンバーは殆どヨーロッパ人で、フランスやオランダやアメリカで医療を学んだ医師や看護士、臨床検査技師たちです。彼らの中には、アジア自体も来たことがなく、国際医療の現場で初めて来るような人もおり、また当然、アジア人と仕事をしたことが無い人も多くいます。エキスパートは一緒に暮らします。そうなると、当然、文化の違いや習慣の違いなど出てきます。喧嘩にもなるし、彼らとの確執も出てきたりします。今思うと、それも重要な経験だといえます。
 最後に私は今まで体験した国際医療の現場から、「本当の自立支援とは何か?」を考えはじめます。そして、その考えが現在の活動団体【ミャンマー・ファミリー・クニックと菜園の会(MFCG)】を設立することに繋がっていくことになります。

<代表者略歴 名知 仁子>
●2002年2月 国境なき医師団にてタイ、ミャン マー国境沿いに派遺され、ミャンマーから逃げ てきたカレン族に対する医療支援にて医療担当
●2003年3月 ジャパン・プラットフォームから ヨルダンに派遺、イラク戦争で難民になったク ルド人難民緊急支援にて医療担当
●2004年10月 国境なき医師団にてバングラディ ッシュ国境沿いに派遺。ロビンジャー人に対す る医療支援にて医療担当
●2008年5月 国境なき医師団にて、ミャンマー デルタ地区派遺、サイクロン被災者に対する医 療支援にて医療担当
●2008年9月 MFCG前身、任意団体ミャンマー クリニックと英国開設基金を設立
●2011年12月 横浜YMCAのデルタ地域での巡回 移動クリニックの診寮に参加
●2012年6月 有志とMFCG設立。代表理事に就任
●2012年12月 横浜YMCAのデルタ地域での巡回 移動クリニックの診療に参加
●2013年4月 ミャンマー保健省との正式な契約 交渉に入る
●2014年3月 ミャンマー保健省と正式な覚書 (MOU)を締結
●2015年1月 ミャウンミャ現地事務所開設・巡 回診療開始
受賞暦
●2011年 内閣府「復興支援型地域社会雇用創造 事業」グランドワーク・インキュベーショング ランプリ受賞
●2012年 社会企業大学ソーシャルビジネスグラ ンプリ
●2012年夏 グランプリ受賞2015年6月テレビ東 京「世界ナゼそこに?日本人~知られざる波瀾 万丈伝~」の取材を受け、放映される
●2015年 埼玉県人会 善行賞に選ばれる
●2016年5月 朝日新聞2016年5月12日付朝刊「 ひと」欄に掲載される
●2016年10月 ステファニ レナトを受賞

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