◎導│ミャンマーに貢献する日本人

「最初はホテル経営など眼中になかった」。 「ミャンマーとの運命的な出会いで決断へ」

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小野寺 紘毅 Koki Onodera -Yangon「International Hotel」 Japan President & CEO-

ミャンマーに関係する人、あるいは邦人滞在者のほとんどがこの方のお名前とホテルをご存じだろう。ヤンゴンでの外国投資として第1号の「ヤンゴン・インターナショナルホテル」は、旧国会議事堂と緑豊かな人民公園の斜め向かいにあり、ダウンタウンへ車で約5分、「シュエダゴン・パゴダ」西口門へは歩いて5分という絶好の立地。敷地内には飲食店を中心に様々なテナントが集まり、夜間はミャンマーの富裕層が集まるアミューズメント・パークのような雰囲気を醸し出す。
 「もともとミャンマーに関心があったわけではないんです。ヤンゴンでホテルを開業することは、多分に運命的なものがありましたね」と、小野寺社長は柔和な笑みを浮かべて語り出した。

小野寺一族は戦中から旧満州で建設業を興し、会社を9社、従業員300名と手広く経営していたが終戦で引き上げを余儀なくされた。戦後実父の賢亮氏が東京大田区で(有)三松建設という会社を創業させ、紘毅氏も27歳で入社。のちに賢亮氏とともに代表取締役に就任する。
 事業は高度経済成長の波に乗り業績を拡大させた。特に不動産ビジネスが好調で、最盛期にはニューヨークのエンパイア・ステートビル60階にオフィスを構えるほどだった。余談になるが、現米国大統領のトランプ氏が、まだ不動産ビジネスに忙しかったころ、仕事で何回かお会いしたという。
その後バブル景気の絶頂期だった1989年に、知人を通じてある大きな話が舞い込んできた。
 東京のミャンマー大使館の敷地約4,850坪のうち約6割近い2,800坪の売却話であった。ただし先に20億円を手付金としてシンガポールの口座に振り込まないと、交渉のテーブルにはつけないという厳しい条件だった。むろん仮契約書や念書などの書面はなく、万が一振り込んで架空話だったらそれでおしまいである。
 「ミャンマーという国をその時知ったんですよ。土地もよかったです。何しろ御殿山という東京の一等地で、3,000坪近いまとまった土地はそうそう出ませんからね。
 だからバブル絶頂といえども坪3,000万、総額で約600億という売却額になったのです。当初は大手も触手を動かしていたようです。ミャンマー政府は大手ゼネコンなど、主だった買手候補をほとんど当たったが、どこも20億の手付けの件などで尻込みしたようです」。当然だろう。冷静になって普通に考えれば断る話である。が、小野寺さんは決断した。
 「これはもう私の直感ですね。当時の大使は念書さえ書き渋っていたし、アドバイスを求めた宗教関係者が現場をみて背中を押すような助言がなかったら、あるいはおやじが反対していたら断念していたかもしれません」。

実父の賢亮氏は音楽、絵画などの芸術が趣味で、普段から「仕事をするな」を口癖にする粋人だった。、言い換えれば「スロ-ライフを送れ」ということなのかもしれない。この売却話に関しても、軽いアドバイスはくれたが、「やめろ」とは言わなかった。
 しかし腹を決めたとはいえ、20億もの現金を右から左へすぐに動かすことは、いくら当時「財界二世学院」の理事長として話題を集めていた紘毅氏と小野寺一族にとっても簡単ではなかった。そこで銀行に相談した。時間がないから懇意にしていた某大手銀行の支店長宅へ電話して相談した。
 結局、会社の定期預金と不動産を担保にし、さらにミャンマー大使からの念書があれば何とかという話になった。そこで紘毅氏は大使と来日していた最高裁判所 長官U AUNG TOE氏と再度交渉し、たった1日有効の念書を取り付けた。
 「今考えると、あれは本国政府の指示ではなく大使の独断だったような気がします。1日限りならたとえ破談になっても理由はどうにでもつけられるからね」。
 こうしてシンガポールへの送金が実行された。その日の朝、紘毅氏はミャンマー人の仲介者とともに大使館へ向かった。着金が確認されれば売買交渉に入る予定だった。何しろ念書はこの日限りのものだった。本日中に確認が取れなければ交渉のテーブルに着けるかどうか。
 時間ばかりが過ぎた。時計は正午を回っていた。当時は現在ほど送金状況がよくなかったとしてもこれは時間がかかり過ぎる、と紘毅氏は徐々に不安になった。そし
て3時まであと1時間というときに、大使館側から「確認が取れた」と告げられた。少々ホッとしたが、乗りかかった舟であり、腹を決めていたので感激はなかった。
「あとはスムーズに行きましたね。大手の銀行団が土地担保に極度額計700億もの巨額融資をしてくれました。そして契約もまとまり、数か月後にミャンマー政府から招待されることになったのです。初めて訪れるミャンマーに興味深々でしたが、ヤンゴン空港に降り立つと、そこには私が予想だにしなかった驚くべき光景が待っていたのです」。(以下次号に続く)

<小野寺紘毅 略歴>
中国で建設業「小野寺組」を興した父、小野寺賢亮氏の二男として1944年に旧満州に生まれる。長兄は生後まもなく亡くなったが姉妹は4人。
1968年 日本大学理工学部経営工学科建築卒
父、賢亮氏が1960年に東京大田区に(有)三松建設を創業。(5年後に株式会社に改組)紘毅氏は三菱建設(株)で3年間勤務後、1971年に入社。
1981年、同社 代表取締役就任
「財界二世学院」創立、理事長に。
1989年に(株)三松建設から社名変更した
「株式会社エム・シー・ジー」が東京品川区のミャンマー大使館敷地約2,800坪を約600億円で購入。翌年2月、ミャンマーへ。
1993年、ヤンゴンのアローンRd.に
「Yangon International Hotel」を開業。
一般財団法人 文化建設会 理事長
日本ミャンマー文化経済友好協会 会長
ミャンマー合気道協会 会長
東京イベント学院 理事長
NPO東京臨海地域開発研究会 理事長
小野寺一級建築士事務所 所長 

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