◎今月の視点 創刊4周年特別企画 「メディア人生40年、僭越ながら、今だから『昔話』をお話しします」

長い正月休みも終わり、ミャンマーは雨期を迎える準備に入った。

ミャンマーで予期せぬ新聞発行が 民政移管の時流に運よく乗って

長い正月休みも終わり、ミャンマーは雨期を迎える準備に入った。  ところで弊紙はこの5月号で創刊4周年を迎えることができました。これもご協力いだいた関係者の皆様のお引き立てとご支援の賜物と、心より感謝しております。  思い起こせば7年前までは、まさかミャンマーで活字に関わる仕事ができるなどとは想像だにしなかった。メデイアの人間に対しては、まだ警戒心を持たれていた。  しかし正直に吐露すると、それでも創刊当初の当方の目線と関心は、まだ30年以上も仕事で関わってきた欧米に向いていた。そこで今号は4周年の総括という意味をこめて、欧米とのしがらみやトラウマの発端なった体験を含め、長々と昔話をさせて頂く。

NY での刺激的な体験がトラウマに有名レストランの電話番に雇用され

あれは丁度今から半世紀前の1967年のことだった。欧州から念願のNYへ上陸し当方は1年余りをこの街で過ごした。当時はベトナム戦争の真っ只中で、反戦、厭戦(えんせん)気分が入り混じり、NYは金融、ビジネスの中心だったが、反体制派知識人や反戦・自由平和を標榜(ひょうぼう)するヒッピーたちの街でもあった。そして世界中からやってくるアーティストやトレンドセッターたちが新しいムーブメントを発信する魅惑的な街だった。しかし一方では現在のヤンゴンのようにまだ荒々しさが随所に残り、日々無秩序に拡散と集約をくり返すエネルギシュな街だった。  50年前のNYは和食店が30軒程度しかなかった。信じ難いが現在のヤンゴンの4分の1以下である。しかし留学生の多くはこうした日本料理店でバイトをしていたが、当方は1か月足らずで辞めた。あえて日本語の通じない職場を探すことにしたのだ。  1週間くらい職探しをしていたら、セントラルパークの南側、高層ビル最上階の43階にあった高級レストランクラブ「P」で、運よく電話番兼クロークの仕事にありつけた。当初の希望は皿洗いで、電話番という点に多少不安を感じたが、面接したイタリア系のGM がこちらの名前と歳を聞き、風体を一瞥しただけで即採用となった。あとでわかったことだが、このGMはNY某ファミリーに関係する裏の顔を持っていた。

厳然たる縦社会の組織が確立 1本の大物からの予約電話

著名なジャズピアニストがオーナーのこの店は、米国の富豪や大物芸能人、作家、大新聞社の編集主幹など、蒼々た顧客たちがひいきにする有名店だった。  ビシッと糊(のり)のきいた真っ白なワイシャツに黒のブランドスーツに身を包んだ渋い二枚目のGMは、滅多に喜怒哀楽を表情には出さなかった。いつも沈着冷静ですこぶる紳士的に思えたが、何か事が起きればいつでも収拾に回る役割らしかった。  そのためか店のスタッフ構成も、このフランクというGM の下にレストラン担当のMGを置き、その下にウェイター長、その配下にウェイター20人、そして最後にパスボーイ3人という飲食ビジネスながら厳然たる縦割りの組織が作られていた。ちなみにパスボーイは調理場からダイニングの入り口まで料理を運び、食べ終えた食器類を洗い場に下げるだけの役目で、決して客の前には姿を出せない厳しいルールがあった。   各国からの移民で構成されるスタッフたちは、一般の飲食店とはひと桁違う高額なチップを全員で分けるシステムだったが、その配分で始終もめていた。しかしフランクが登場し、ひと言ふた言諫(いさ)めると、誰もが口答え一つできなかった。  店は毎夜繁盛し、5時くらいから予約の電話が入り始める。しかし、当然客はこちらがネイティブだと思って容赦なく早口でまくし立てる。仕方なく雇用された当初は名前のスペルを言っていただき、再確認する作業の連続だった。何があっても予約者名だけは絶対にミスが許されず、毎夜緊張の連続だったが、ある晩、1本の予約電話が入った。この店の“売り”であるセントラルパークを一望できる窓側の特等席に10人という大きな予約だった。  強い南部なまりの聞き取りにくい英語だっが、こちらは当然いつものようにひたすら名前を書き取ることに全神経を集中させた。ところが、電話を切って改めて予約帳を読み返すと、そこには何と当方の汚い筆跡で「Elvis Presley」と綴ってあった。

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