◎発見│ミャンマーの観光スポット  KyaikHto チャイトーとシッタン川周辺

ビルマ戦線の勝敗を決定づけた激戦地「シッタウン橋」 日本兵の戦没者が眠るメモリアルな場所を訪ねて

目次

 今回はヤンゴンから4時間程度のモン州KyaikHtoへいった。観光名所のチャイティーヨー・パゴダ(Golden Rock)へのゲートウエイとして有名だが、他に興味深い観光スポットが何か所かある。雨季は「Golden Rock」山頂へ行くことは禁止されているが、日本人にとっては先の大戦のビルマ南西部における最後の激戦地「シッタウン川」をめぐる攻防は悲惨な歴史として残る。

 1945年(昭和20年)7月から終戦にかけて、ビルマ戦線において日英両軍との間で行われた戦闘がいわゆる「シッタン作戦」といわれる攻防である。シッタン川西岸に唯一残っていた日本の第28軍は、英軍のラングーン侵攻により、退路を絶たれてペグー山系に追い詰められていた。

ペグー山系はイラワジ川とシッタン川とに挟まれた標高500mの丘陵地帯で、竹林に覆われている。しかし、シッタン川西岸沿いのマンダレー街道(現在の国道1号線)を南下し、ラングーン侵攻を目指していた英軍の第4軍とて、雨期で作戦行動は緩慢になっていたのがせめてもの救いだった。
 第28軍の食糧は7月末が限界となっていた。将兵は竹の小屋で雨をしのぎ、筍粥で飢えをしのいだが、食塩の欠乏症に苦しんだ。食塩の不足で筋力が低下し、ついには立っていることさえままならなくなる。
 そこで第28軍はシッタン川を越えてビルマ東部へ撤退しようとした。雨季は最盛期に入り、河川は氾濫し、平地は沼地に変わった。ようやく兵力の集結を終えた第28軍は敵中突破作戦を計画した。そして7月下旬、十数個の突破縦隊に分かれ、闇にまぎれてペグー山系を脱出し、一斉にシッタン川を目指した。 広大な冠水地帯を横断し、増水したシッタン川を竹の筏で渡ったのである。将兵は筏に身を託して濁流へ身を投じた。体力の衰えていた者は濁流を乗り切ることができず、水勢に呑まれて流されていった。
 渡河に成功した将兵は、シッタン川東岸を南下して行軍を続けた。しかしシッタン川を突破できた者は3万4,000名のうち約4割の1万5,000名に過ぎなかった。その後、第28軍司令部は第53師団司令部に到達し、南方軍と緬甸方面軍から作戦成功の祝電と終戦の詔書公布を知らされた。8月15日の終戦の日だった。

Sittaungシッタウン

ヤンゴンを朝6時に出発した。8時にバゴーを過ぎて30分ほどでシッタウンSittaung橋に着いた。橋を渡ると「ようこそモン州へ」と大きな看板が迎えてくれた。  
 チャイトーはヤンゴンから160㌔離れているが、想像以上に静かな町だった。町内の交通手段はバイクか自転車。ヤンゴンや周辺へ行く高速バスも走ってるが、観光には車をチャーターしたほうが便利。
 午後からはシッタウン川へ向かった。チャイトーの中心から20分程度だ。まず、シッタウン村にある「KyaikKa Lon Punパゴダ」へ。先の大戦では戦火の渦中にあったこの橋の周辺は、未だにその霊気のようなもを感じる。

村に入り、まず「戦没者記念墓地」を目指すことにした。シッタウン橋の裏を右側に曲がると、シッタウン川が目の前にに広がるAye TharYar地区に到着。川辺には住宅が並んでいるが、昔は4軒しかなかったと聞いた。
 近隣の人に、「ジャパニーズ・メモリアルに行きたい」と告げたら、40年前からここに住んでいるという老人が傘を持って来てくれ、道案内をしてくれた。5分ぐらい歩くと、どうやら墓が埋まっているという場所に到着したようだった。うっそうとした雑草に覆われ、これでは初めての人にはわからない。やはり地元の方に案内して頂いて正解だった。
「ここには以前、個別にお墓があったのですよ。でも今は住民と企業の間で土地の使用問題でトラブルになって荒野になってしまいました」。
 村人はそういった。なんでも企業はここでゴムを栽培したかったようで、その計画を立てた。しかし「ここは戦没者の霊が眠るから」と、地元民の反対にあったという。墓地とその歴史を壊す状況を誰も好まなかったのだ。「それで、その計画はストップしたんだよ」と老人は説明してくれた。
 なるほどと思った。「激闘の戦い」(A Furious Battle) と呼ばれるシッタウン川での戦闘は、日本軍の勝敗の明暗を決定づけたともいわれている。それだけに多くの犠牲者を出した。昔から住む村人たちは、その悲惨な歴史を今でも忘れていない。その場所にゴム栽培は考えられなかったのかもしれない。

「私たちは新しいシッタウン橋の建設計画でここに移転させられました。移住当時はこの川辺付近にはうちを含め4軒しか家がなかったのです。今は住宅地になりましたが、徐々に人が集まり、開発中に戦死した将兵たちの墓が見っかるようになってきました」。
 墓の周りでは鉄棒、歯、レンガなどの遺品も発見されたが、保護する団体も組織もまだできていない時代だったので、すぐに行方不明になっていったという。村人は墓を訪ねる外国人に何回か道案内をしたことがあるといった。中でも英国人が多かったという。やはり現地の案内人と通訳は必要だそうだ。
もちろん、悲しく、重ぐるしくなる見学には違いないが、過去の真実に目を向け、歴史を振り返り、2度とこうした悲劇を繰り返してほしくないという気持ちで一杯になった。
1945年8月に終戦を迎えたが、「Japanese Conquest of Burma」という歴史本では、1942年2月に、このシッタウン橋(当時シッタン橋)が一部破壊されたことを下記のように記述している。
 「シッタン橋は数百ヤードにわたる鉄道付きの橋で、ビルマの南海岸に位置するシッタン川を横断したていたため、その名前が付けられている。
 第17インド軍師団は、ビリン川の戦いで、すでに劣勢になり、 後退。シッタンを離れる許可を得た。闇に乗じて西に30マイル(50km)撤退しした。一時は日本軍が優勢だったのだ。
 日本の第214、第215連隊は進軍し、シッタンでの英軍撃退を目指した。 戦いが終わった直後に戦闘を指揮したウィリアム・スリム(フィールド・マーシャル・ウィリアム・スリム)大佐は、シッタン橋を「戦争の決定的な戦い」と名付けた。英:("the decisive battle of the first campaign.")」
 2月22日の早朝に、日本軍がこれ以上攻勢に転じたらスミス大佐は、1時間以内に橋を破壊するよう将兵に命じた。
 スミスの選択は、橋を破壊し、自分の部隊の半数以上援護する計画だったという。そして2月22日の早朝5:30に、実際に橋が壊されたことが書かれている。
シッタウン川は420㌔(260 mi)と長い。ちなみに1957年に建設されたTheinZaYat地区に位置する古い鉄道併用橋は、今まも使用されているが、交通量に耐えられなくなり、2008年7月12日に新しい「シッタウン橋」が建設された。 シッタウン川の景色を眺めるには古いシッタウン橋付近の「MyaThein Tan パゴダ」がいい。新橋から車で10分程度だ。TheinZaYat 地区にあり、賑やかなTheinZaYat 中央市場に入ってみるのも面白い。すぐ近くに 駅もあり列車でも行ける。(ヤンゴン→バゴー→モーラミィヤン→イェー→ダウェイ線)で、Than PhyuZaYat駅を超え、ダウェィまで走っている。静かで長閑なシッタウン川の風を受けながら、正しい歴史を地元の方々から教えていただいた旅だった。

ここの土産といえば、果物だ。ザボンやドリアン、マンゴスチン、ドリアンジャム、果物ジャムなどがある。
 また、この辺りは農村地帯であり、時期によって豊富な作物が収穫できる。雨季にはピーナツ、トウモロコシ、サトウキビ、ジュート、塊茎作物、飼料などが採れる。
 乾季にはゴマ、ひまわり、落花生、チリ、トウモロコシ、野菜、牛のエンドウ豆、グリーングラム、ブラックグラム、飼料など、多年生作物としてココナッツ、ビンロウの実、ゴム、バナナ、マンゴスチン、ドリアン、パイナップル、ジャックフルーツ、カシューナッツなど穀物や果物が沢山たくさん採れる地である。多くの人々は農業に従事しており、牛や馬、ヤギなどの家畜で生計を立てている方が多い。
 今回は忌まわしい戦争の傷跡が残るシッタン周辺についてレポートした。次号ではチャイトーの魅力的な観光名所を紹介していきたい。

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