12歳で日本へ渡った青学卒のバイリンガル歌手 日英に堪能な語学力を生かし将来は貿易の仕事を Meari Sou メアリ・ソー

1988年の民主化運動の騒乱の前後に日本に渡ったミャンマー人は多いが、2007年9月23日には僧侶を中心とする大規模デモが再びヤンゴンで発生したときも同様の現象が起こったという。

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言葉の壁で日本の小学校でいじめに遭う

1988年の民主化運動の騒乱の前後に日本に渡ったミャンマー人は多いが、2007年9月23日には僧侶を中心とする大規模デモが再びヤンゴンで発生したときも同様の現象が起こったという。デモには民主化、国民和解、政治犯釈放、国民生活の改善などを求めて,10万人から15万人が参加したが、これは、88年の民主化運動以来、最大規模のデモであった。
 このときの抗議行動の直接のきっかけとなったのは、同年8月15日の燃料価格(政府価格)の大幅引き上げだった。それによって、公共交通手段の運賃や日常品の価格も上がり、庶民の不満が一気に高まったのである。
 そしてこの騒乱の後に日本へ渡るミャンマー人が急増した。今回お招きしたメアリーさんのご両親もそうだった。当時11歳の一人娘の彼女を連れて、いわゆる難民として向こうに行った。
 「でも、日本に行ってから両親は離婚してしまったんですよ。それから、お母さんと2人で暮らしていましたが、母はビジネスの才能があったので、不動産業などを勉強して結構収入を得ていたようです。それで私を日本の大学まで卒業させることができたのです。」
 しかし当然ながら日本到着直後のメアリーさんは日本語が全くだめだった。それでも日本の小学校へ編入入学した。「言葉がわからなかったのでいじめに遭いました。私のほかにもう一人ネパール人の男の子がいましたが、2人とも言葉が理解できないので馬鹿にされたり、本当に陰湿ないじめを受けましたね。」
 そのいじめはエスカレートとしてきた。「あまりにもひどくなったので朝のホームルームで訴えようとしましたが、何しろ日本語でうまく説明できない。そこでいじめていた子たちを指さして大声で泣いてしまったのです。」結果的にこれが功を奏した。味方になってくれた日本人の友達が、一部始終を担任に説明してくれ、その後で担任が悪がきたちを叱責したら、翌日からいじめはピタッと止んだ。

日緬の文化、習慣に精通した強みでビジネスを

中学、高校と進むうちに、言葉の壁がなくなった。やはり若いときに外国語に接すると、マスターするのが早い。今回のインタビューもすべて日本語で行ったが、少々難解な日本語も理解でき、発音もネイティブと変わらぬほどだった。それどころか英語も同時に勉強していて今では日、英に堪能な才媛である。
 都立の高校を優秀な成績で卒業し、大学は青山学院大学を受験した。「受かったときは本当にうれしかったです。母の姿を見ていたので、私も将来はビジネスをやりたいと思っていました。それで経済学部を選んだんです。」
 学生時代は調査リサーチのバイトに熱中した。これだけの美貌があれば、イベントキャンペーンなど、もっと楽で高収入の仕事もあっただろうにと思ったが、
 「好きなんです。こうしたデータ収集が。それに今後のビジネス活動にも生かせると思ったし、結構面白かったですよ。」
 彼女がやりたいビジネスとは具体的に一体何かと聞くと「やはり日本とミャンマーとの間でできる貿易ビジネスでね。12歳で日本に来て、もう人生の半分は日本で生活していますから、両方の言葉も文化も習慣もわかっています。だからその特性を生かして、まずミャンマーの特産品を日本へ輸出できたらと考えています。そう簡単ではないと思いますが、幸い両国に沢山の友人知人ができましたから、そうした方々の協力やアドバイスをいただきながら焦らずにやっていこうと思っているんですよ。」
 なるほど、メアリーさんのような存在は希少だ。一般的に日本で長く暮らしていて日本語の堪能なミャンマー人は多いが、しかし読み書きとなるとこれが苦手な方も多い。おそらく専門的な日本語でやり取りできる人は中々いない。その点彼女は経済学士様である。通訳や翻訳者など雇わずに、ご自分の語学力や知識と判断で仕事を進められる点が大きな強みだ。

一転して芸能界へ進んだ理由とは

しかし人間の運命はどこでどうなるかわからない。大学2年生のときに自作の歌を作詞、作曲し、それを何気なしにYouTubeにアップしたところ、すぐに驚くべき現象が起きたのだ。バラード調のロマンティックなメロディーだった。
 「ミャンマー人からの反響がものすごい数になりました。小さいころから詩を書くのが好きだったんですが、初めて曲をつけてみたんです。そしたら想像以上の反応が来ました。」
 それどころか、この曲を聞いたミャンマーの音楽関係者からも打診が舞い込んだ。それで大学3年のときにミャンマーに一時帰国した。
 「結果的にこの『ウェー』【花が咲き乱れて】という歌がデビュー曲となりました。自分でいうのもおこがましいのですが、ちょっと話題になりヒットしたんですよ。」
 そしてこれが契機となり、プロの歌手になる決断をした。ミャンマー人ギタリストと再婚していた母もエールを送ってくれた。
 それから大学を卒業し、本格的にミャンマーをベースに歌手活動を始めた。するとコマーシャルモデルの仕事のオファーも来るようになった。
 昨年、あの森崎ウィンとSUZUKI自動車のコマーシャルにも抜擢された。アパレルメーカーの仕事で念願のハワイにも行った。
 「だからといって貿易ビジネスへの夢を捨てたわけではないんですよ。いつもミャンマーならではの特産品で日本の方に受けるような商品はないか、と考えています。」
 最近、森崎ウィンに代表されるように、日本でミャンマー人のタレントが目につくようになった。騒乱のさなかに日本に渡ったミャンマー人の2世世代である。彼女もその一人だが、おおむね皆さん卑屈にならずにポジティブ思考なのが救いだ。
 最後に、ミャンマーと日本のどちらが好きか、という愚問をぶつけてみた。案の定、少し間が空いて考えながら「難しいですね。どちらも好きですが、今は、住むんだったらミャンマーでしょうね。」と相好を崩しながらいった。 

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