ミャンマー女性監督の第一人者が語る映画への思い入れ 日緬合作映画のメガホンをとってさらにステップアップ Kyi Phyu Shin

 近日ミャンマーで公開が予定される日緬合作映画「My Country My Home」Zar Ti Myay のメガホンをとった。この国で最も有名な女性監督ならではの美しい映像美と親子の絆と愛情を描いた作品が評判を呼ぶ。今回はこの映画の脚本を自らも手掛けたチィー・フュー・シン監督に、ご自身の映画への関りや思い入れを含めてお話しを伺った。

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映画製作一家に生まれて 若冠21歳で監督デビュー

 約100年の歴史を持つミャンマー映画界は、かって「アジアのハリウッド」と称されるほど隆盛を極めた。しかし政変や社会主義体制への移行などで長らく不幸な時代を経験し、停滞していたが、1995年の最後の政変を経て、再び活況を呈するようになってきた。
 今回お招きしたチィー監督は、その再生期の1996年に若冠21歳の若さで監督としてデビューした。
 「祖父が映画監督で、母はプロデューサーでしたから、小さいころから私の周りには『映画』がありました。それに私は物事を創造してしていくということが好きでした。何かを考え、どうしたらより良いものができるか、そんなことをいつも考えている子供でしたから、いつかは映画の世界に関わってみたい、という夢のようなものがありましたね。」
 環境的には恵まれていた。祖父は有名な監督で、母はアカデミー賞脚本賞を受賞するほどの一流の脚本家だった。いわばサラブレッドだった。教育システムで暗記教育に重点が置かれているこの国で、創造性に富んだ若者を見つけるのは困難だが、チィー監督は、小さいころからクリエイティビティーのある子供だったという。
 「だから成長していくにつれ、それまで夢にしか思えなかった映画監督という仕事は、中学生になったころから明確な目標になってきました。楽しく、見る人が喜ぶ映画を作ってみたいという、そんな意欲がわいてきたのです。」
 1988年以前は監督がプロデューサーを兼務するのが当たり前であった。だから監督は王様のようなもので、絶対的な存在だった。しかし1995年あたりから役割は完全に分業化され、監督は映画製作に専念できるようになった。そうしたミャンマー映画界にも近代化の追い風が吹き始めた時代にチィーさんはこの業界に飛び込んだ。
 「とはいっても最初の数年間はビデオ作品が中心でした。まだミャンマーは撮影環境が脆弱でしたから、製作費、撮影場所などの問題で、この時代は比較的負担の少なく、手軽に撮れるビデオ作品が主流だったのです。」
 こうしてチィーさんはビデオ作品で経験と技術を磨いていった。しかし、女性監督でかつ21歳という年齢的なハンデはなかったのだろうか。
 「当然ありましたよ。地方のロケなどへ行くと、現場で『本当にあなたが監督なのか』という顔をされたことが何度もありました。 私がこの業界に入ったころは、まだ経験が浅い方が多かったので、ベテランの俳優さんに気を遣うというか、多少恐れるような雰囲気もありました。そうした役者さんに仕事の依頼をすると、ストーリーが気にいらない、監督が信頼できないなどという理由で、出演を拒否されることもありましたね。」
 当初は順風満帆というわけにはいかなかったのだ。しかしそれでもチィ―監督は信念を曲げずに独自の道を切り開いていった。
 「最初のころは準備段階で、母などから色々アドバイスをもらいましたが、撮影に入れば私の思い通りに映画制作をやりました。結果的にこれがよかった。自分の個性やイメージが表現できるようになってきましたからね。」
 そして23歳の時に念願の映画作品のメガホンをとる機会がやってきた。その後、「Moe Nya Eain Mat Myu」など、メガホンをとった複数の作品がミャンマーアカデミー賞で男優賞、女優賞、脚本賞を受賞。ミャンマーの若い世代を中心に幅広いファン層を獲得し、この国では押しも押されぬ女流監督として確固たる名声を築いていく。

日緬合作映画の依頼が舞い込む 日本のロケで多くのことを学んだ

 ミャンマー映画界で20年余り、ドキュメンタリー映画でもその実力をいかんなく発揮してきた彼女の元のもとへ、1年ほど前に思いもよらぬ大作の依頼が舞い込んできた。
 総務省の放送コンテンツ海外展開基盤総合整備事業の一環として、NHKグループの日本国際放送(JIB)とミャンマーの民間地上波チャンネル Myanmar NationalTelevision(MNTV)が共同製作する日緬合作映画「MyCountry My Home」の監督依頼である。
 「この映画のミャンマー側の制作責任者であるMNTVのDawNan MoukLaungSaing社長から打診を頂いた時には、本当に驚きました。
でもやってみたいと思い、すぐにお受けしました。」
 この映画は、1988年の民主化デモで日本に逃れてきたミャンマー人のその後を追った物語である。当時工業大学4年生だったサイさんの実話に基づいているという。
 「大まかな粗筋は日本側からいただきましたが、脚本は私が書き上げました。日本へ逃れたミャンマー人たちの子どもたちは、育った日本を祖国と思い、ミャンマーを外国だと思っている人が多かったので、悩みながらもアイデンティティを確立していく子どもたちの気持ちを描いていきたいと考えたのです。」
 東京・高田馬場やミャンマーを舞台に、二つの祖国の間で揺れる日本に住むミャンマー人女子高生の心の葛藤と恋愛模様をひと夏を通して描かれている。主役のナン役には、ミャンマーの人気女優ウィッ・モン・シュエ・イー(Wutt Hmone Shwe Yi) が抜擢された。相手役にはミャンマー出身でダンスボーカルユニット「PrizmaX」のメインボーカルとしても活躍する森崎ウィンの出演で注目を浴びた。このほか男優陣ではAung Ye Lin, Yan Aungといったミャンマーの人気俳優がキャストに加わった。
 「ミャンマー側のキャストは私が選びました。日本側のキャストは、向こうが提案してきた俳優さんを3人ぐらい見せていただきました。ファイルを見て、カメラテストなどをさせていただき決めました。森崎ウインさんの場合は、このキャラに合っているなと思ったので選びました。」
 日本での撮影は昨年8月中旬から約1か月間行われたが、日緬にわたる初のロケで相当な苦労があったのではないかと質問すると「日本では、早朝から夜9時ぐらいまで撮影が続きました。夏でしたが割と涼しく、段取りもよかったのでスケジュール通りに進みましたね。ところがミャンマーに戻ったら、撮影シーンが日本より少なかったし、そんなに疲れないだろうと考えていましたが、逆にミャンマーでの撮影の方が大変でした。シーティーホールやスーレーパゴダあたりでのロケが多かったのですが、とにかく日差しが強く、道路も人で混み合っていましたから、その流れがなくなるのを待ちながら撮影するので時間もかかりました。、思い通りにいかないことが多かったですね。」
 しかし苦労は多かったが、海外との合作映画で得るものも多かったのではないか。
 「確かにいい経験になりました。脚本を書く前に、Production Manager と何回も会議を重ねました。ミャンマーではそんな習慣はまだありません。細かいスケジュール表も作りました。年代的な考証もしました。例えば、88年の民主化デモにも触れていますが、その時代は、日本とミャンマーだけでなく、世界的にどういう動きがあったのか、きちんと精査しました。またロケハンという習慣も素晴らしい。撮影開始の10日ぐらい前から準備します。その準備は大変ですが、事前の準備があったからこそ、撮影がスムーズにいきました。また、日本では、ワンシーンを撮るのに時間を決めています。ミャンマーではシーンの数は決めますが、長さにはこだわりません。1時間と決めても30分で終わる場合もあるし、もっと長くかかるときもあります。でも、不思議なのは、日本では終了時間はスケージュール通りにい行ったことです。その日に撮るシーンは消化できていたのです。そうした日本の仕事に進め方には本当に感心しました。これからの自分の仕事に生かせるでしょうね。」
 20年余りも映画を撮り続け、すでにベテラン監督の域に達しているチィー監督にとっても、日本での撮影経験は得るものが大きかったようだ。そのチィー監督から見たこの映画の見所はどこなのだろうか
 「主人公の女子高校生ナンと父親との会話でしょうか。自分のことを日本人だと思っていた彼女が、そうではないと知り父親に話す場面です。クライマッスともいえるシーンですね。」
 ダウンタウンのYCDCにほど近いオフィスでお話しを伺ったが、監督という事前の知識がなければ、失礼ながらごく普通のミャンマー女性にしか見えない。それでも映画の話になるとがぜん彼女の口調は熱を帯びてきた。本当に映画が好きで、情熱を注いでいる姿を垣間見ることができた。
 そのチィー監督は若いころに「おしん」を観て感銘を受けたという。昔の日本は歯を食いしばって頑張る「おしん」のような女性が多かったが、今のミャンマー女性に相い通づるところがあるのではないか、だからこうした女性をテーマにした映画を撮ったらいかがかと、水を向けると、彼女は相好を崩した。その笑顔がとても素敵だった。この映画の公開が楽しみになってきた。
 この映画の公開は2月中に予定されているが、これに先立ち、2月1日にネピドーで行われる「NLD 政権3周年記念セレモニー」の式典において、大統領、副大統領や在ミャンマー日本大使他関係者を招いた試写会の開催が結定した。日緬交流を兼ねた試写会ではあるが、NLD中央委員会委員として政治活動にも励む彼女の努力の賜物であろう。
 そうしたチィー監督は社会貢献活動にも積極的に参加している。戦地での危険探索や犯罪などの捜査で過酷な役割を強いられているミャンマーの探知犬を保護するために「ForBrave Dog」(勇敢な犬のために)協会を立上げ、自らその会長として、寄付金を集めたり、啓蒙活動を行ったり、支援にも力を注いでいる。

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