第4回 新連載 半世紀にわたる”旅”の回顧録 「人生、風まかせ、運まかせ」

西ベルリン中央駅に着いたのは夕刻だった。夏だったのでまだ陽が長く、駅は人々でごった返えしていた。不思議だったのは東ドイツの国境駅で入国ビザを交付されたが、査証代は無料で、西ドイツ政府が負担というシステムだったこと。西ドイツから自国内の西ベルリンに行くのだから、よく考えればビザ不要は当然だった。

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東独領内の孤島だった西ベルリンへ

 西ベルリン中央駅に着いたのは夕刻だった。夏だったのでまだ陽が長く、駅は人々でごった返えしていた。不思議だったのは東ドイツの国境駅で入国ビザを交付されたが、査証代は無料で、西ドイツ政府が負担というシステムだったこと。西ドイツから自国内の西ベルリンに行くのだから、よく考えればビザ不要は当然だった。
 しかし、ベルリンはなぜこんなややこしい状況になっていたのか。それは、ドイツが先の大戦で敗れた後、連合国(米英仏露)による陣取り合戦の草刈場となったからだ。米英仏の資本主義グループは、西ドイツ(ドイツ連邦共和国)を支持、他方、共産主義国のソ連は東ドイツ(ドイツ民主共和国)を支持し、国土が二分された。
 そして当時ドイツの首都であったベルリンも同様に二分され、東西ベルリンが出現して国境沿いに有名な「東西の壁」ができた。結果、西ベルリンは地理的に東ドイツの中にある西ドイツの孤島になり、西ベルリンへ行くためには、東ドイツを横切らなくてはならなくなったのだ。
 しかし、この年から23年後の1989年にこのベルリンの壁が崩壊した。その光景を日本の自宅でTV観戦していて仰天した思い出がある。壁が存在していた当時、東ドイツ市民が壁を乗り越えて西へ脱出し、失敗した市民が警備兵に射殺されたニュースを何度も見ていただけに、東ドイツ政府が旅行及び国外移住の大幅な規制緩和、つまり事実上国境を開放したときも驚きをもってみていたが、むろんこの当時は崩壊するなどとは予想だにしなかった。
 中央駅から我々はゴパルのアパートに向かった。私はベルリンで仕事が見つかるまで面倒をみてくれると約束してくれたインド人のゴパルに運を託していたのだ。
 アパートといっても8畳ひと間にベットと洋服ダンスと小さな机があるだけの貧乏下宿であった。寝るときはゴパルがビーチマットに空気を入れて寝床を作ってくれた。
 それでも贅沢は言ってられず、その晩は疲労痕倍ですぐ熟睡してしまったが、翌朝目が覚めて近所を徘徊してみると、なんと100メートル西側にあの「壁」が万里の長城のごとく張り巡らされていた。壁の向こう側には監視台があり、その中から機関銃を構えた兵士がこちに睨みを利かせていた。やや緊張感が襲ってきた。彼のアパートは壁のすぐ近くだったのだ。
 考えてみれば日本を出てまだ1か月も経たなかった。しかも通常なら今頃は新学期が始まり、学校で授業を受けている最中だというのに、気がつけば私はすでに東西冷戦の真っ只中に放り込まれていたのだ。
 でもそんな悠長なことは言ってられない。私はこの日からすぐにバイト探しを始めた。ゴパルたちもあちらこちらの友人知人に連絡し、仕事がないかどうか聞いてくれた。しかし、3日目に意外なことが判明し、思わぬもうひとつの「壁」が立ちはだかっていることがわかった。
 確かにドイツをはじめ、欧州諸国、特に先の大戦で大量の若い労働力を失った西欧諸国は深刻な人手不足に見舞われていた。その筆頭がドイツだった。そのため西ドイツは50年代に「ガストアルバイター」という制度を策定し、大量の単純労働者をトルコから流入させた。その数300万人ともいわれた。
 「ガスト」はドイツ語の「客」の意味。いわば一時労働者で、現在の日本の研習生制度のようなものであった。ガストアルバイターたちは西ドイツの戦後復興を建設現場や工場で下支えたが、73年の石油ショックで募集は停止。その後、彼らの一部は労働契約が切れても帰国せず、母国にいる家族をより豊かなドイツに呼び寄せ始めた。
 経済成長が続く間は西ドイツ国民と移民の不信感は目立たなかったが、89年の東西ドイツ統一による財政負担と経済悪化で両者の隔絶が顕在化し、流入したトルコ人が集中して住む地域が孤立化し、ドイツ国民との溝が広がった。そしてドイツは今アメリカに次ぐ移民大国になり、2015年の移民数は全人口の約14%に当たる1200 万人にもなった。

バイト探しで立ちはだかったもうひとつの壁

 話は横道にそれたが、この「ガストアルバイター」制度が確立していた当時の西ドイツでは、この制度の対象外の私のような観光ビザのいい加減な輩は、雇用主が雇いたくても法的にできなかったのだ。むろん工場や飲食店の皿洗いならバイトはあったが、法を犯してまで不法労働をする気はなかった。
 「それ見たことか」といわれそうだが、このベルリンでの体験はそれなりに貴重であった。ゴパルをはじめ、その友人である若いドイツ人学生たちは、みな自分のことのように心配し、奔走してくれた。
 それで私は3日後にベルリンを離れて、北欧のコペンハーゲンへ向かうことを決めた。偶然にも、そのコペンからベルリンにきたバックパッカーのW君という日本の学生と町で知り合い、その彼が「仕事上があれば労働ビザは出るよ」と、有難い情報をくれたのだ。
 出発までの3日間、せっかくだからベルリン見物をしようと決め込み、できれば壁のあちら側に行けないものかとゴパルに相談したら、「大丈夫だよ。地下鉄で行けるよ。」と、驚くべきことを言った。「地下鉄で国境をこえるのか?」。私は思わず聞き返してしまった。1961年8月13日のベルリンの壁着工で、東ドイツ政府は公共交通網も東西で分断した。しかし、起点と終点が西ベルリン側にあり、中間を東ベルリン領内を通る地下鉄については、東独領内の駅を、一部の例外を除いて通過することで対応した。東ベルリンへ入国するのには、1日ビザと強制両替があった。旅行者は一日当たりの最低両替額25マルク(支出額)が定められていた。これは外貨獲得の一環であったようだ。東ベルリン入国に際して、DM30と引き換えに24時間観光ビザを取得した。内訳は一日観光ビザDM5、そして、強制両替DM25。
 そして地下鉄に乗って外国旅行に出かけた。車内から薄暗闇に浮かび上がる、堅固に封鎖された不気味な通過駅を見た。西ベルリン市民が、いつしか「幽霊駅」と呼ぶようになったというのもうなづけるほど暗闇の無人駅は気味悪かった。
 地下鉄で30分ほどで「フリードリヒシュトラーセ駅」(東独への国境検問駅)に着き下車し、東ベルリンに入った。想像していた通り、向こう側は殺風景極まりまりない世界だった。壁が延々と立ちはだかり、ここにはゴパルから危険だからあまり近づくなと忠告を受けていた。
 西ベルリン側の壁は、落書きだらけであった。そして、所々に十字架が立てられて日付と名前が刻まれていた。これは、東から壁を越えて失敗して射殺された人の碑であった。ベルリンではどちらが囲われているかといえば、それは西ベルリンなのだが、東から西へ逃げ出す人が後を立たなかった。
 いずれにしても、以後世界各地の国境地帯を通過したが、地下鉄で外国旅行ができるなどとは夢にも思わなかった。それから3日後、私は西ベルリン中央駅からハンブルグ行きの列車に乗った。ゴパルたちが見送りに来てくれた。わずか1週間あまりのベルリン滞在であったが、ずいぶん長くいたような気がした。旅をしていると、見知らぬ土地で、見知らぬ人々の暖かい真心に触れることができる。それも大きな魅力だと感じた。(以後次号に続く)

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