新連載 第4回{半世紀にわたる”旅”の回想録} 「人生、風まかせ、運まかせ」

フィンランドの港町トッルクからスエ―デンのストックホルム行きのフェリーに乗り、デッキに立って離れ行くトッルクの街を眺めていたら、不意に20代前半でインド人とおぼしきカップルに肩を叩かれた.

目次

インド人のカップルに声を掛けられて計画変更に

 フィンランドの港町トッルクからスエ―デンのストックホルム行きのフェリーに乗り、デッキに立って離れ行くトッルクの街を眺めていたら、不意に20代前半でインド人とおぼしきカップルに肩を叩かれた。
 そして、180センチはゆうにあろうかという男の方が「君は日本人か?どこまで行くんだ?」と、矢次早に質問を浴びせてきた。私は突然見知らぬ人間たちに気安く声を掛けられ、やや警戒したが、スーツ姿の大男の方はともかく、鮮やかなシルクのサリーがよく似合う連れの美しい女性の上品な微笑みを見たとき、「悪い人間たちではなさそうだ」という確信を持った。
 結論から言うと、彼らはインドから西ドイツ(当時)のベルリン工科大学に留学していた学生であった。ちなみにこの工科大学は、1770年に当時のプロイセン国王によってに創設された伝統ある大学。1946年には人文系の学科も併設され、東西ドイツ再統一後は、国内で二番目に大きな工科大学として有名だ。
 しかし失礼ながら、この当時のインドからこうした由緒ある大学に留学できる層は限られていた。地方の豪族かマハラジャ、あるいは政治家の子息たちでなければ無理な話であった。案の定、ゴパルと名乗った22歳の男はインド南部カルカッタ(現コルカタ)の「ヴァイシャ」の出であることがのちに判明した。この階級はカースト制度では上から3番目だった。
 だが、カースト制度そのものは1950年に憲法で廃止され、そのあとにインド政府は「留保制度」を導入した。いわばカーストの下層階級向けの救済政策で、それまで優遇されていた上位階級の人たちが、希望の大学に自由に入ることすらできなくなり、その枠を下層階級に振り分ける、政治家たちが選挙民向けに考案した政策だといわれた。
 だからゴパルとその婚約者のアイーシャも、地元のカルカッタ大学をあきらめ、この工科大学に留学したという経緯を、そのあとで移動した船内のコーヒーショップで聞いた。
 私も自分の生い立ちや、なぜここにいるのか、そして今後の目的などを説明した。すると彼らはまず17歳という私の年齢に驚き、「バイトしながら世界一周」という途方もない目的に目を輝かせた。
 しかし彼らはなぜ私に声をかけたのだろうかという疑問が一方では湧いた。「日本はインドの独立に大きな貢献をしてくれた。歴史でも習い、叔父もそういっていた。恩人なんだよ。それでつい、日本人かなと思って、声をかけたんだよ。」
フィンランドのペンフレンドの爺さんに続き、また戦争の話かいな、と思っていたら、今度は日露戦争ではなく、第2次大戦後の1947年に、英国から独立を勝ち取ったインド解放にまつわる話だった。

欧米とアジアでは戦争史観が大きく異なる

 日本へ帰国してから、インド独立に関する資料を読み漁った。すると、当時の帝国陸軍が行った最大の愚策といわれた「インパール作戦」に行き着いた。すでにご存知のようにこの作戦は、日本軍約7万8千人とインド国民軍約2万人の日印連合軍による“対英戦争”であったが、インパールからビルマ北部街道におびただしい数の餓死者、病死者を出した過酷な戦いであった。だから今でもこの作戦と無能な指揮官への批判は根強い。
 しかし、インドはこの作戦を「対英独立戦争」と位置づけ、「インパール戦争」と呼んでいた。
軍という評価であり、「日本が侵略戦争をした」という歴史観は持っていない。
 大戦数終了後の1945年11月、英国はインパール作戦に参加した3人のインド国民軍の将校を、デリーの英軍大本営で裁判に掛け、反逆罪として極刑に処そうとした。だが、このニュースが伝わるや否や、インド国民が一斉に蜂起して大暴動に発展した。その結果、もはや事態収拾不能と判断した英国は、ついにインドに統治権を返還した。1947年8月15日のことであった。
 当時のインド国民軍のS.S.ヤバダ大尉は、1998年に来日して靖国神社に次のようなメッセージを残した。「我々インド国民軍将兵は、インドを解放するためにインパール、コヒマの戦場に散華した日本帝国陸軍将兵に対して、もっとも深甚なる敬意を表します。インド国民は大義のために生命をささげた勇敢な日本将兵に対する恩義を、末代にいたるまで決して忘れません。我々はこの勇士たちの霊を慰め、ご冥福をお祈り申し上げます。」
 約21年前に旧首都デリーを訪れたとき、市内中心部には、インド国民軍を指揮してインパール作戦を戦った独立の英雄、スバス・チャンドラ・ボースの銅像が建っているのを目にした。彼の指先はかっての英軍大本営の方角を指していた。
 こうした歴史的な話は後年に分かったことで、この当時は恥ずかしながら、バイト探しの方が常に頭にあり、「日本がインド独立の手助けを」といわれても、“本当かいな”と思ったものである。
 欧米の歴史観では先の戦争は「日本のアジアへの侵略戦争」となっている。日本でも大半の見解がそうである。確かに、全体主義に踊らされ、軍部に主導された無謀な戦争だと、当時の私も思っていたし、学校でもそう教えられてきた。むろん戦争など金輪際ご免こうむりたいのは本心である。
 しかし、侵略されたと思っていたアジア諸国にとっては、結果的にあの戦争で列強諸国から独立、解放される契機になったと評価する国が少なくない。このゴパルたちインド人もそうであったが、表面的な世界史しか習っていなかったので、そう感謝されても、当時の私には「お世辞でも嬉しいね」程度の感慨しか湧かなかった。いずれにしても、こうした事実を知り、日本という国を俯瞰できるのも海外へ出る意義なしれない。
 そのゴパルが「ベルリンに来ないか」と、思わぬことを言った。バイト探しは手伝う。職が見つかるまでは彼のアパートに居候しろ、という誘いだった。だが、急にそんなことを言われても、私は判断に迷った。
 私の目的は北欧でひと稼ぎしてアジア、アフリカ、そして米国に渡り、世界一周することだったから、「ベルリン」という選択肢はハナからなかったのだ。
 気が付けば時計は11時を回っていた。あと5時間余りでスエーデンに着く。ここで決断しなければ彼らの好意を無にする。それで「まあ、行ってみるか」という軽い気持ちでこの誘いに乗った。まさに、「人生、風まかせ、運まかせ」だったのである。

北欧を素通りして陸の孤島の西ベルリンへ

 ストックホルムの港に着いた我々は、すぐさま中央駅に向かった。構内のカフェテリアで朝食をとりながら、朝7時何分か発のハンブルグ行きの列車を待った。ゴパルたちがハンブルグで1泊して翌朝、西ベルリン行きの列車に乗る予定を立てていた。
 だからこの時点ではスエーデンの印象は薄かった。しかし中央駅は清潔感にあふれ、国のメインゲートだというのに、さしたる喧噪もなく、行きかう乗客たちの表情にも、何かゆったりとした余裕のようなものを感じた。さすがこの当時世界最高の生活水準を誇る国だということが、すぐに分かった。
 列車は国内の2,3の主要駅に停車し、午後1時過ぎに隣国デンマークのコペンハーゲン中央駅に着いた。下車はしなかったが、のちにこの街で10か月あまりを暮らすなどとは、もちろんこの時点では知る由もない。
 それから5時間余りで西ドイツの工業都市ハンブルグに着いた。この街に来たら当然「ハンバーグ」を食べようと思っていたが、実際に口にしたらさほどの感激はなかった。夜着いたので、街の印象もこの時はよくわからなかった。
 翌朝、西ベルリン行きの列車に乗った。ここまでの切符、宿泊の手配はすべてゴパルたちがやってくれた。ありがたいことにベルリンまでの費用もすべて彼らが持ってくれた。
 しかし列車がホームを離れていよいよ西ベルリンに向かって走り出したとき、私の脳裏にはある疑問が浮かんできた。「西ベルリンは東ドイツの国内にある孤島のような街ではなかったか」という、素朴な疑問であった。
 「戦後ベルリンは米英仏が管理する西ベルリンと、ソ連を後ろ盾にした東独領の東ベルリンに分断された。そして今から5年前の1961年に、東独はベルリンへ至る国内の領空、道路、鉄道を封鎖した。しかしこれは西側諸国の猛反発に遭い、しばらくして西ベルリンと西独本土との間は、航空機のほか3本のアウトバーン(高速道路)と3本の鉄道で結ばれるようになったんだ。」と、ゴパルが丁寧に説明を始めた。
 しかしアウトバーンと鉄道は、東独領内での停車、下車は禁止された。国境でパスポート検査があり、東独の通過ビザが必要(その場で取得)だった。
 その東独へ入国する国境駅では、いかめしい顔をした官憲が乗り込んできて、喜怒哀楽を一切表に出さずに事務的に入国手続きが行われた。そして列車が東独領内に入ると、ソ連を通過する道中で見た、あのモノトーンの田園風景が視界に入り出した。ここからはノンストップで西ベルリンまで行くという。
 車窓からその寂しそうな風景を眺めていたら、「本当にバイトは見つかるだろうか、世界一周なんて大見えを切ったがやれるだろうか」と、心持ち弱気になりかける自分に気づいた。何しろ手持ち資金はすでに50㌦くらいになっていたからだ。(以下次号に続く)

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