特集 一世紀以上の時をタイムスリップ ヤンゴンの激動の歴史を語る「ビルマ写真の旅」 英国との確執を経て民主国家となった町への想い

今から24年前の1995年に、英国の「Kiscadale」という出版社が刊行した「Burmah A Photographic Journey 1855-1925」という本である。  著者はNoel F. Singer。1937年に英国生まれたイラストレーションを専門とする出版人であった

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約70年間の記録を集めた写真集

 今から24年前の1995年に、英国の「Kiscadale」という出版社が刊行した「Burmah A Photographic Journey 1855-1925」という本である。
 著者はNoel F. Singer。1937年に英国生まれたイラストレーションを専門とする出版人であった。彼は1990年代初頭からヤンゴンに滞在し、最初は「ビルマ・パペット」(操り人形)の世界を撮り続け、何冊かの本にしたためた。そのうち英緬の歴史にも興味を持ち、100年上も前の旧ビルマの古い文化、町、人々を収めた写真を収集し、それを一冊の本にした。
 英語版とビルマ語版で刊行されたこの本は、現在では絶版になって古書扱いされているが、歴史的ビジュアル刊行物として世界905の図書館に所蔵されているという。
 この「ビルマの写真の旅」と題した本を見ていると、1世紀以上も前の古い秘蔵写真をよく集めたものだと感心するが、確かにビルマの歴史、特にビルマ最強といわれたコンバウン王朝と英国との3度にわたる戦争の末に、英植民地になっていった様子が目に浮かぶようだ。
 近代から現代にかけてのビルマは、英国との確執に満ちた歴史を歩んだ、といっても過言ではない。英国は、1600年に東インド会社を設立して以降、継続的にインド、特に東部のベンガル地方を植民地化してきた。そして19世紀初頭までにインドの大半を支配下に置き、これに伴い当時の盟主ムガール帝国を衰退させた。
 一方、当時のビルマは、1752年にアラウパヤー率いるコンバウン王朝が成立して以降、領土拡張のために隣国シャムや清の雲南にまで侵攻を繰り返し、ついには西隣のインドへの侵攻を始めた。英国がインドを駆逐する様子を見ながら、これに乗じて1818年にビルマ王はベンガル地方の東半分までの割譲を英国に要求した。しかしこれを拒否され、1822年にビルマ軍が越境してベンガルに侵入した。しかし、英国が反撃を開始し、その2年後に「第一次英緬戦争」起きる。
州南部地域の割譲を余儀なくされた。さらに英国の拡張政策は進み、アヘン戦争(1840年-1842年)の勝利によって中国(清)を開国させ、インドのほぼ全域を掌握するようになる。
 そして英国は再びビルマに触手を伸ばす。1852年、再びビルマに侵攻してペグー(現バゴー)を占領し下ビルマを自国領に併合した。いわゆる第二次英緬戦争である。英国はビルマ南部を掌中にすることで、当時インドシナに進出していたフランスに対抗心を燃やした。東アジアへの進出をさらに強化したのだ。1857年にはついにインドのムガール帝国を滅亡させ、1858年に東インド会社を解散させ、植民地統治と東方交易を英国政府の直轄とした。
 フランスもベトナムへの侵略をはじめ、清仏戦争(1884年~1885年)でインドシナの支配権を確立した。そして機をうかがっていたオランダも、ジャワ島からスマトラ島を攻略してインドネシアに一大植民地を建設した。この時期、欧州諸国は雪崩のようにアジアに侵攻して植民地化していった。ビルマ側はフランスと結びこれに対抗しようとしたが、英国側は些細な問題を口実に王を捕らえて王朝を滅ぼし、ビルマ北部をも併合した(1885〜86, 第3次ビルマ戦争)。こうしてビルマ全土はカルカッタを首都とするインド帝国の1州とされてしまった。(1935年にインド帝国から分離される)。

悲惨な運命にさらされた王家一族

 この写真は第二次英緬戦争が始まった1852年の3年後から1925年にいたる70年間の秘蔵写真を収録したのもである。歴史的なショットはないが、当時の雰囲気などは伝わって来る。
 ビルマは英国植民地になったが、ビルマ人は「英国」が大嫌いだった。英国人はさまざまな手口でビルマ人のアイデンティティーを奪った。完全に植民地化した英国は、当時の国王ティボーとその一族をインドの果てに島流しにして、国民の求心力をも奪ってしまったのだ。
娘で美貎のファヤ王女の消息を約一世紀ぶりに報じた。王女は英植民地軍兵士の愛人にされて貧困の中で死亡したという。そしてその娘、つまり国王の孫娘ツツは「最貧困層に身を落とし、造花を売って生計を立てている(当時)」というニュースが流れた。これには普段はおとなしいビルマ国民が本当に怒りで唇を震わせたという。
 英国は国王を追放したとき、黄金の玉座も失敬した。戦後、国連を通じて返還を求めたが、戻ってきた玉座は穴だらけ。はめ込まれたルビー、ダイヤなどの宝石がすべて盗られていたそうだ。
 そうした遺恨があるからこそ、ビルマは独立するとすぐに英国色を消し去った。ヤンゴンの外語大は英語を教科から外し、日本語を取り入れた。道路もそのときに英国流の左側通行から右側通行に変えた。
 英国に次いでビルマ人は中国を嫌っている。中国人は植民地時代に入り込み、英国人の手先となってビルマ人を搾取した。英国人が引き揚げたあとも彼らは居座って経済の実権を握り続けたからだという。
 故ネ・ウィン大統領が鎖国政策をとったのも、ビルマ経済を停滞させて商売のうまみを消し、彼らが愛想を尽かして出ていくのを待つ、という意味があったという。
 そのため国民は耐乏生活を強いられたが我慢した。それが自分の国を取り戻すためだと知っていたし、同じような状況のベトナムが華僑追放という強制手段を選んで、戦争(中越紛争)に巻き込まれたことよりは、ましな方法だと認識していたからだ。
 しかし、中国人はビルマ乗っ取りにもう一つ、手段を講じた。共産ゲリラの侵入だ。彼らは社会不安をあおりながら南下し、1970年代にはヤンゴンのすぐ北のバゴーにまで進出した。これを掃討したのがかっての権力者タンシュエ元上級大将だといわれている。

かって隆盛を極めたヤンゴン

ヤンゴンは、6世紀に当時下ビルマを支配していたモン族によって「ダゴン」(Dagon)と命名された。ダゴンは「シュエダゴン・パゴダ」を中心とした小さな漁村だったが、1755年、コンバウン王がこの町を征服し、「ヤンゴン」と改名し入植した。しかしその後、ビルマを植民地化し英国が「ラングーン」と改名した。そして英国領ビルマの商業的かつ政治的な中心地に変貌させた。
 英国は当時軍の技師だったアレクサンダー・フレーザーに設計を命令し、バズンダウン川の東側およびヤンゴン川の南側と東側に接するデルタ地帯の都市計画を立案させ、新都市建設に着手した。また、インドから追放したムガール帝国最後の皇帝であるバハードゥル・シャー2世をラングーンに幽閉した。
 ビルマを支配下に入れた後、ラングーンは英国領ビルマの首都となった。1890年代までに、ヤンゴンの人口および商業活動の増加により、カンドーヂー湖とインヤー湖の北側に裕福な郊外住宅地も出現した。
 英国人はラングーン総合病院などの医療施設や、ラングーン大学などの教育施設を創設した。植民地時代の町は、広大な公園や湖、近代的な建物と伝統的な木造建築の融合が見られ、「東の庭園都市」と呼ばれた。20世紀の初頭までに、ラングーンは公共サービスおよび社会的インフラなどで、ロンドンと先の大戦前、ヤンゴンの人口は500,000人で、その約55%はインド人あるいは南アジア人だった。ビルマ人は総人口のわずか約1/3にしか過ぎず、その他は、カレン族、華人、英国人とビルマ人の混血および他民族だった孤立主義者の故ネ・ウィンの治世下 (1962-88) で、ヤンゴンのインフラは管理不十分で悪化し、増加する人口に対応できなくなった。そこで1990年代、当時の軍事政権はそれまでのビルマ式社会主義から市場開放政策に移行し、国内および海外の投資を引き寄せ、街のインフラの整備に力を入れ始めた。
 そのため市当局は植民地時代の約200もの有名な建物を市の遺産リストに登録すると同時に、多くの植民地時代の建物を、高級ホテルや官庁、ショッピングモールなどへの導入路を造るために取り壊した。
 主要な建設計画により、6本の新しい橋と、市中心部と工業地帯を結ぶ5本の新しい基幹道路が完成した。それでもヤンゴンの多くの地区では、24時間の電気使用や定期的なゴミの収集などの基本的な行政サービスがまだ脆弱だ。
 ヤンゴンは独立以来、民族構成において土着のビルマ人の割合が増えた。独立後、多くの南アジア人および英国人とビルマ人の混血は、国を後にした。1960年代、多くの南アジア人は排外的なネ・ウィン政権によって、国外退去を強いられた。にもかかわらず、ヤンゴンには、大きな南アジア人および華人のコミュニティーがなおも存在している。英国人とビルマ人の混血は、国外に逃れたり、他種族のビルマ人と結婚したりして姿を消した。

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