導│ミャンマーに貢献する日本人 日本人墓地に永眠された元日本軍鉄道隊員木下幹夫さん 木下さんに学ぶ「真の日緬交流」と「平和な社会の尊さ」

この度、ヤンゴン日本人会の池谷修氏のお骨折りで、昨年お亡くなりになった元鉄道第五連隊第二中隊の木下幹夫さんの建碑法要が、この3月27日にミンガラドン・イェウェイ日本人墓地にてつつがなく執り行われました。 木下幹夫さんは、昭和15年

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この度、ヤンゴン日本人会の池谷修氏のお骨折りで、昨年お亡くなりになった元鉄道第五連隊第二中隊の木下幹夫さんの建碑法要が、この3月27日にミンガラドン・イェウェイ日本人墓地にてつつがなく執り行われました。
 木下幹夫さんは、昭和15年(1940年)21歳で徴兵されますが、当初から行先は告げられず東南アジア方面へと転々とされ、昭和17年(1942年)3月27日に船でビルマのラングーン(現在のヤンゴン)に着き、日本軍とビルマ独立義勇軍により、イギリス軍が撤退した後のビルマ戦線に送り出されました。
 木下さんはそれまで阪急電鉄に勤務しておられたこともあって、ビルマでは鉄道第五連隊員に配属され、シャン州に源流のある川幅2㎞のシッタン川に架ける木造鉄道橋の建設工事(完成)、モン州タンビュザヤからタイに向けて1年4ヶ月かけての泰緬鉄道の建設工事(完成)、そして最後はインパール作戦から撤退し白骨街道と化していくルートにもなった、ミャンマー北東部カチン州のモーニンの駅長に従事され、空爆の対象となった鉄道沿線で、現地の人にも助けられながら、そこで終戦を迎えられました。そして翌年の昭和21年(1946年)11月に日本に帰還されました。
 空襲ですっかり荒廃し、立ち直ろうとしていた故郷の大阪にたどり着き、再び阪急電鉄に復帰され、その後は企業人として活躍される一方で、二度と本土の土を踏むことができなかった戦友の分まで地域の社会教育活動にも精力的に貢献され、日本の戦後復興に全勢力を費やしてこられました。
 私たちは、木下さんのように辛い戦争体験を乗り越えて、国や地域を愛し復興に尽力された多くの先人の礎があって、戦後10年にして、『もう戦後は終わった』と言えるほどの目覚ましい経済発展を果たすことができたことを決して忘れてはいけません。
 日本も生活に少しずつゆとりが出てきた頃、復員された兵隊さん達の多くは、亡き戦友を偲んでビルマへ慰霊の旅に出かけられ、遺骨収集をしたり、日本人墓地や慰霊碑を建て、またパゴタ(仏塔)も寄付したりして、日本の伝統文化『和』を大切にして、亡き英霊を供養する人たちが多く出てきました。中でもとりわけ木下さんの慰霊の旅は、40年間27回に亘りました。そこには長女松岡素万子さんご夫婦の深く温かいご支援がありました。
 木下さんは、泰緬鉄道建設時には、オーストラリア兵捕虜110名、現地の労務者200名を日本軍鉄道隊員わずか12名という部隊で路盤工事を指揮監督されていました。
 その木下さんの部隊では、あの映画『戦場にかける橋』のように鉄道敷設に駆り出された連合軍捕虜も仕事にはプライドを持って汗を流し工事を進め、同じように屋根をヤシの葉で葺いた宿舎で寝泊まりし、同じものを食べ、豪雨で工事ができない日には一緒にトランプをしたり、余暇には球技もしたりして楽しんだというお話も聞いています。.
 現在タイ側の戦争博物館で多く語られている虐待のような言動や暴動は少なくとも木下さんの部隊では全くなかったのです。しかし、戦況が悪化してくると物資も食料も医薬品も底をつき、度重なるイギリス軍の空爆による犠牲者も出ましたが、鉄道建設時に亡くなったほとんどの方は、実は栄養失調とコレラ・マラリア・チフス・デング熱などの疫病にかかり未曾有の犠牲者を出してしまいました。
 戦後になって死の鉄道『Death Railway』と呼ばれるまでに悲惨を極めた工事現場であったことも歴史的事実なのです。木下さんはこのように多大な迷惑をかけてしまった日本軍にもかかわらず、現地の人々は大変よくしてくださり、ある時、激しい空襲で木下さん達鉄道員があわや命を落とすところを、村の少女の計らいで安全な民家へ非難することができ、九死に一生を得たということもありました。
 木下さんは、ミャンマーの人にはいくら感謝しても、いくらお詫びしても終わりはないと現地の学校や僧院にドネーションをしたり、ミャンマー語の堪能な木下さんは、現地の学校を訪問した時には、悲惨な戦争についての講演をされたりして、現地の人からも慕われ尊敬されておられました。
 そうした中、モン州の大きなお祭りがあり、現地の方の計らいで、若いころお子さんと一緒に来日された時にお会いしたことのあるアウン・サン・スー・チー女史ともご一緒になり、再会を祝してお言葉を交わされました。
 このように戦後40年も続けられた地道な活動によって、木下さんは2016年1月4日、モン州政府から日本人としてただ1人、タンビュザヤでの泰緬鉄道博物館の落成式に招待され、当時のモン州知事と同席され、娘さんご夫婦に支えられながら、ユーモアを交えたミャンマー語で挨拶もされました。しかし、その時の来緬が、木下さんにとって最期の慰霊の旅となってしまいました。
 この度、木下幹夫さんの日本人墓地での建碑法要には、生前に木下さんと親しかった大勢のミャンマーの方も参拝していただき、木下さんのお孫さんやひ孫さんたちも、将来きっと紫の美しい花を咲かせてくれるジャカランダの苗を植樹をされるなど、未来に繋ぐこともできました。これからもヤンゴン日本人墓地を通して、日本とミャンマーの絆がさらに広がっていく一助になることを願ってやみません。
(文責 元ヤンゴン日本人学校長 置田和永)

木下さんのひ孫さん達が立ち会ったジャカランダの植樹(日本人墓地)

父木下幹夫の建碑法要を終えて 故木下幹夫 長女 松岡素万子

 父は昨年10月20日に98歳で亡くなりましたが、その折にはたくさんのミャンマーの方からお花やお悔みの言葉をいただきました。父は、生前の40年間に27回、戦友や戦争で亡くなった方々に対する慰霊の旅を続けてきました。
 私たち家族は、父のことを大切に思ってくれる多くのミャンマーの方々のいる地で、戦友と共に眠ることができるように父の遺骨をミャンマーの地に持っていきたいという思いがありました。そこへ今年2月中旬、置田和永さんが岐阜から父のお参りに大阪の我家まで来てくださいましたが、その3日後にタイ・ミャンマーに行かれるタイミングでした。
 私たちがミャンマーへの分骨を希望しているお話をしますと、ヤンゴン日本人会で長年日本人墓地の管理にかかわっていただいています池谷修さんにそのお話をつなげてくださいました。その結果、ヤンゴン日本人会のご高配でこの3月27日に日本人墓地への埋葬許可をいただけることになりました。それに加え、当初から希望していました紫の桜とも呼ばれている「ジャカランダ」の植樹まで準備していただき、私たち家族の願いを叶えることができました。
 建碑式当日まで、ヤンゴン在住の置田さんの奥様と日本人会の池谷さんのいろいろなお手配やご配慮のお蔭をもちまして、立派な石碑を建てることができました。
 法要には、父と深いご縁のありました多くのミャンマーの皆様を交え、3人のお坊さんにお経を上げていただき、また尼僧の3人の方にもご列席いただき、無事建碑法要を終えることができました。
 その後の食事会では、父がいつもなつかしく歌っていましたミャンマーの歌が披露されました。また、父が亡くなったことを聞いて、18組の方がお金を集めて、父がいつも訪れていました尼寺の学校に水の施設を寄付してくれました。そこには父の名前と共に「故木下幹夫氏の長年に渡る慰霊活動および日緬平和友好活動に敬意を表し、ここに寄贈致します。ミャンマー後継者一同」という文字がありました。法要には参列できなかった多くの方々の気持ちもしっかり感じることができました。
 日本から6歳と8歳の孫、長女と次女、そして主人と私の6名が法要に参列できました。今回小さい孫を連れて行きましたのは、父が築いたミャンマーの方々との絆を未来に繋ぐという私たちの強い願いからでした。その思いが通じ、多くの方が孫や娘たちにやさしい声をかけてくださり、温かい絆を結んでくださいました。滞在中の5日間、ずっと傍で父が喜んでくれている姿が浮かびました。
 この度のことでいろいろとお世話になりました日本人会の皆様、実現に向けて動いてくださった置田和永様、当日わざわざ参列していただきました池谷様、起美様、そして父とご縁のありましたミャンマーの多くの方々に、このヤンゴンプレスの紙面をお借りして、心より感謝申し上げます。
平成元年4月吉日 合掌

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