発見│ミャンマーの観光スポット

ザガイン(Sa Gaing) 管区に位置するインダウ(Indaw)と バンモゥ (Banmauk)は、山頂に建てられた 「ザロンタウン ・パゴダ」 (Za Lon Taung Pagoda)をはじめ、外国人には知られざる 名所が多い。しかもIndawは先の大戦時に英軍との最後の激戦が行われた歴史的秘話を有する町。

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ミャンマー北部ザガインの知られざる町への小旅行 有名パゴダや日英激戦地域にもなった歴史的なエリアSaGaing ザガイン管区 「 Indaw インダウ Bamauk バンモゥ」

ザガイン(Sa Gaing) 管区に位置するインダウ(Indaw)と バンモゥ (Banmauk)は、山頂に建てられた 「ザロンタウン ・パゴダ」 (Za Lon Taung Pagoda)をはじめ、外国人には知られざる 名所が多い。しかもIndawは先の大戦時に英軍との最後の激戦が行われた歴史的秘話を有する町。今回そんな興味深い2つの町を訪ねてみた。

インダゥを歩く

 上ミャンマーの Sa Gaing 管区のKa Thar 地区に位置している。Mandalay – Myit Kyi Na 鉄道の路線上にあり、マンダレーから鉄道で206マイル(約330㌔)。1897年に「インダゥ」町と定められたが、それ以前は「Manlal」 と呼ばれた。
 面積は679平方マイルで、56区から構成されている。町内にはこの国の古典文学に記されているメザー (Me Zar)小川が流れており、住民は農業と水産加工業で生計を立てている。周囲を山々が囲み、寒い季節や程よい雨のシーズンも到来する。

メザー小川

 このインダゥの町は風光明媚なところだが、 日本が当時のビルマに侵攻してきてから建てられた パゴダや陸軍病院もあった。先の対戦の終戦間近の1944年に、日本と英軍はこのIndawで戦った。当時日本軍はこの町に「Indaw West」と「Indaw Lake」に、2つの飛行場を持っていた。陸軍病院もその重要な施設のひとつだった。
 英軍と激戦を交える2年前の1942年に、日本軍の歩兵隊第51師団、第21砲兵大隊や 中隊2隊、第24特定旅団などが この町に 布陣した。その軍の 医療施設として建てられたのが陸軍病院だった。
病院は町の 西南方向に建てられた。住民たちは「丘の病院」または(ミャンマーの発音で)「Byoo-Inn Taung Gone 」とも呼んだが、正式な記録には「118戦線基地病院」と 書き留められているという。インダゥは 小さな町だが、Mandalay – Myitkyina 鉄道の そばにあり、交通の便がよかったため、陸軍の支所のような官庁もあったという。
 病院のほうは建物は崩壊していたが、その痕跡をうかがうことはできる。しかし戦後、宝探し目当ての人たちが発掘しに来たが、病院のレンガの壁が硬すぎて破壊するのに難儀した。
 そして完全に壊すことができずに放置した。しかしその後、重機や人力で解体し、病院の設計状態や当時の遺品などが発見されたそうだ。
 その現場に行ってみた。すでに建物の痕跡はなかった。 やぶ、灌木(かんぼく)に覆われ、近くまで行くのも難しかった。最近再び作業が開始され、日本時代の遺品などの発掘が行われているという。

旧陸軍病院後からの爆弾、銃弾、銃剣(じゅうけん)、水筒(すいとう)、ヘルメットと大日本・昭和八年と書いた鋳貨(ちゅうか)などが発見された。
 現在、そうした遺品類は、「第二世界大戦戦争記念物」という展覧室を設置し、開放中だ。こうした発見で、当時のビルマのインダゥの町に貢献、奉仕した日本軍のこともわかり、その軍人たちの子孫も、ここへ来て見学したり、当時のゆかりの地をめぐることもできるようになった。
 我々取材班は 病院の敷地内には立ち入ることはできなかったが、大戦で戦死した日本の兵士たちの冥福を祈る人々が建てた平和のパゴダを参拝した。そこには英霊たちへの鎮魂を記した記念碑も ある。

インダ ゥ(Indaw)とマンレ ィ(Manlal)

 「インドゥ」と変名される前に、1897年ごろにはマンレ ィ(ManLal) と 呼ばれたていた。
 町の西方1,6㌔の距離に長さ6,㌔、幅3,2㌔ の 「 インドレー」 (Indaw Lay) と 呼ばれる湖がある。この湖は変名前には、マンレィ (Manlal)湖 と 呼ばれていた。
「マンレィ」の町は、西暦824年に「Ban Du Thar Ra」 王の時代の Na Ra De Waという 議員によって作られたという。当時シャン民族の領主に支配されていたことから、この町の名はシャン語だが、ミャンマー語では「良い町」という意味を持つ。

伝説に満ちたManlai僧侶の物語

「マンレィ」の町は、西暦824年に「Ban Du Thar Ra」 王の時代の Na Ra De Waという 議員によって作られたという。当時シャン民族の領主に支配されていたことから、この町の名はシャン語だが、ミャンマー語では「良い町」という意味を持つ。
伝説に満ちたManlai僧侶の物語
 この町で尊敬され有名な人物が「マンレィ 僧侶」である。 西暦1842年4月に生まれ、父親は木材商人だったが、僧侶が3歳の時 に父が亡くなった。
 その彼は12歳の時に、WunTho 町の、山頂僧院で修行。1年くらいでミャンマー語の基礎を覚え、スラスラと読み上げた。また詩などに趣味が湧き 古代の詩人が作詩した詩文を習った後で、16歳になる前に、すでにミャンマーの詩界の二文節詩、四文節詩、古典詩、叙情詩(じょじょうし)などどの創作をいとも簡単にできたそうだ。
 15歳の時に母が亡くなり、16歳で領主の兄の僧侶の推挙で小僧になった。法名は (Ashin Za Wa Na)、小僧になってから6年で高僧の指導を受け、パーリ語、註釈(ちゅうしゃく)、註釈の解説などの三蔵(さんぞう)の書物の勉学に励み、天才といわれたという。ちなみに修道僧になって10年目に、新しい「Mar Ga De Wa」 という韻文をしたためて恩師に返礼したという。
 西暦1918年にイギリス政府から「Agga Maha Pandita」という称号を授与され、その後書いた「Mar Ga De Wa」という大韻文には、様々な慣習、文化、王朝史、薬膳、化学、占星術などのような形而下(けいじか)の世界だけでなく、形而上(けいじじょう)の世界にも役立つ知識、実用作法などに関する完璧な韻文で作った。そして韻文の博士 だと認知された。書いた著作は30冊以上にもなったそうだ。 
 Manlal 僧侶は絵画や彫刻にも造詣が深く、その自作の絵画や彫刻などはManlal 僧院で見学できる。僧侶でありながら生前天上界へも行ったことがあるという特殊な人格者である僧侶は、ミャンマー宗教界でも伝説的な人物と崇められた。国内だけでなく海外でも信仰された僧侶は、年齢79歳で世を去ったが、僧侶の腐蝕していない遺骸は博物館で拝謁することができる。

バンモ ゥを歩く

 バンモゥ(Banmouk)の町は、ミャンマー王朝時代の「Wun Tho」領主の支配地で、植民地時代になった当初は、英国に対して非常に強い抵抗を示した地方 だったという。東にある標高800mの「Min Wun 山」ををはじめ、近隣周辺には山林が多い。そのため町には有名な金鉱山もあり、 町内の「ザロンタウン・パゴダ」 (Za Lon Taung Pagoda) も 金色に輝いたことから、有名になって巡礼者が増え始めたという。
 「ザロンタウン」(Za-Lone- Taung) は、町の西北にある石山の上に建てられている。海抜1600m の「Thay Lar Pa Ba Lar」 という山の山頂に鎮座するこのパゴダは 「見れば見るほど 撮影して帰りたくなるような」人を引きつける魅力あふれる力を持つ。
 モン州にある「チャイティヨー」(Kyeik Hti Yo) パゴダと同様に、上ミャンマー地方では有名な巡礼地であるから、巡礼者は、山のふもとからパゴダまで特別なバスで行けるようになった。
 しかし巡礼地として有名になった期間がそう長くないせいか、まだ山道は未舗装で、雨季は危険な場所が多い。しかし今回は無事にパゴダに着いた。
 目的のパゴダに着く前に、まず自然の石造物 (Kyauk Man Dat) の見学に向かった。昔の化石でできた不思議な米俵だ。そしてパゴダは歴史的には、仏陀が修業僧になってか20年目に、山に巡回説教に行った。そのときに山が夕方になると全体が金色で黄色味がかった景観になった。その興味深い話が伝わり、信心深い巡礼者たちが増えてきたそうだ。
 「ザロンタウン・パゴダ」の祭りは、 他のパゴダのそれに比べると 上座部仏教色が強いという。そのため演芸、歌劇などを含めずに、説教会だけを主体として行うことが多いという。
 祭りの期間は四月ごろ(ミャンマーの正月)になる。パゴダの周囲にはKa Du、Ka Nanや、 シャン 民族などが 暮らしている。
 バンモゥは自然豊かなところで、花や緑の樹木あふれる地だ。歴史的にも興味深い逸話が残り、個性的なパゴダも見逃せない。ミャンマーの新しい観光名所になるかもしれない。

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