顔・人│VIP 歌手 Ah Moon ア・ムーン

2年連続出場のプエドーで彼女がウィンと歌った「共に作る未来」と題された曲は、昨年のプエドーのプロジェクト曲で、作曲は森崎ウィン、作詞がAh Moonだった。

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デビュー時の騒動とバッシングを乗り越えてトップ歌手に カチン民族の誇りを持ち常に最高のパフォーマンスを目指す

Ah Moon ア・ムーン
Pops Singer / 歌手
去る2月3日に開催された恒例の「日緬プエドー2019」で見せてくれた、人気アイドルの森崎ウィンとのデュエットが印象に残る。牧師の父を持つ厳格な家庭で育ったが、幼少時から稀有な歌唱力が評判を呼んだ。デビュー当時は過激な衣装が保守層からバッシングを受けたが、それでもめげずにスター街道を上り詰めた。

検閲、規制が厳しかった 時代にデビュー

 2年連続出場のプエドーで彼女がウィンと歌った「共に作る未来」と題された曲は、昨年のプエドーのプロジェクト曲で、作曲は森崎ウィン、作詞がAh Moonだった。
 「実は3年くらい前から彼と彼のグループPrizmaXとは、活動をともにすることが多かったんです。だから気心が知れていて、気分は最高でした。」
 Ah Moonさんは、インタビューの冒頭でプエドーの話題を振ると、こう言って無邪気に笑った。ヤンゴン外大で学んだというだけあって、訛りのない美しい英語が返ってきた。
 彼女は、北部カチンの州都ミッチーナの生まれで、キリスト教牧師の娘として生まれた。小さいころからその歌唱力は高く評価され、教会のミサはもちろん、何かイベントがあると必ず声がかかったという。
 「だからといって、将来、歌手になりたいという特別強い願望をもっていたわけではありません。ただ、私はマイケル・ジャクソンで大きくなりました。彼のダンスの動きを観て、彼の音楽を聴き、そうしてポップミュージックやダンスを学んだのです。」
 彼女は正式な音楽訓練を受けていない。教会音楽で育ったが、母国が世界から孤立していたために、西洋音楽への唯一の扉は地元の店で何とか見つけた数枚のCDやDVDだけだったと回想した。そしてアメリカのTV 番組や映画を観て英語も積極的に学び、ヤンゴンの外国語大学で本格的に語学のマスターに取り組んだ。
 しかし、ご本人は意識せずとも、彼女にプロ歌手になるチャンスが舞い込んできた。何気なく受けたオーデションに合格してしまったのだ。オーストラリアの会社が主催したミャンマー初の女性だけのポップスバンドのメンバー募集のオーデションだった。
 「18歳の時でした。200人の応募者の中から5人を選出するイベントだったんですが、まさか選ばれるなんて思ってもいなかったんです。」
 2010年の時だった。翌年からテン・セイン政権によるミャンマーの民政移管が始まった。音楽界にも民主化の波がやってきていた。それまで多くの歌手が海外のヒット曲をカバーし、現地の人なら誰でも知っている音楽であるコピー・ソングで成功を収めている文化の中にあって、この女性たちだけのバンドは、ユニークなアイデンティティーを持っ存在となった。しかし、その強烈な個性ゆえ、Ah Moon自身も思いもよらぬ騒動に巻き込まれることになる。

過激な衣装がひどい バッシングを浴びる

 この時期にミャンマーでは人気絶頂だった女性歌手ピューピューチョテインは、弊紙が5年前にインタビューしたとき、「3000Ks (約250円)で売られている正規の私のCDは1万枚くらいしか売れていない。その代わり300Ks ( 約 25円)のそのコピー版が60万枚くらい売られていますから」と、笑っていたが、当時は歌詞を始め様々な検閲があったことも明かしてくれた。
 PPチョーティンもかなりの「コピー・ソング」を歌っていたが、そのコピーでさえ、幾度となく検閲を受け「何度か歌詞を変えるように言われました」と語った。しかし2013年的に変わってきていた。
 それでもAhMoonの所属した「Tiger Girles」(のちにMe N Ma Girls=メンマ・ガールズに改名)は、参加した2010年から数年間は、保守的な人々から多くの批判を受けることになる。
 2012年10月、まず事件は起こった。ミャンマーの国営テレビで「ランウェイ・ガール・コレクション・ファッション&ミュージック・フェスティバル」という番組を放映中、出演予定だった当時人気急上昇中のAh Moonの10月公演の出演シーンがカットされてしまったのだ。
 「私のステージがあまりにも過激すぎると検閲委員会は考えたのでしょう」と彼女は述懐する。彼女の場面がカットされたのは、衣装が理由だった。あまりにもセクシーなものだとみなされたのだ。「女性ミュージシャンの衣装についての検閲がかなり厳しかったのです。色のついたウィッグでさえ付けることができなかったのです」と、彼女は言う。
「Tiger Girls」は、この国で最初の女性だけのポップバンドで、最終的には公演中に鮮やかな色のヘアピンをつけて歌っていた。しかし、少しずつ変化はみられたものの、当時ミャンマーの監視は弱まっていなかった。
同年、ヤンゴンのホテル主催のコンサートも出が多すぎると主催者に判断されたためでした」と明かした。。
 「ミャンマーは何をするにしても検閲がありました。とても保守的な国で、時々息苦しく感じることもありました。何かを着るとき、何かを言うとき、いつも検閲を気にしなくてはいけなかった。セクシーになりすぎてもいけないし、この国の文化に相応しくしなければならなかったのです。」と、彼女はそう説明した。
 彼女たちは、ありきたりでない挑発的な衣装と「セクシー」な振付で保守的な社会を刺激した。その結果、驚いたことに同年代の同性たちからも多くの批判にもさらされたのだ。
 「軽薄そうで嫌」という彼女たちは、本当は願望はあるのに、社会や家庭からの刷り込みで、そう考える女性は少なくなかったともいえる。
 また、歌詞も「カバー曲全盛」の慣例に反して自作するようになり、あえて政治的な内容に踏み込んだ。例えば「Come Back Home(帰っておいで)」という歌は、ミャンマーの難民を歌にしたものだった。
 「言論の自由が今まさに始まりました。私たちは世界に伝統文化を紹介したいと思いますが、一方で、私たちの国は閉じていない、貧しくない、後ろ向きな国ではないことも証明したい。状況が変わっていることを伝えたいのです」と、Ah Moonは2012年にローカル紙のインタビューでにこう語っている。 
 ここ数年は民主化で音楽状況は大幅に改善されている。歌詞の検閲が緩和され、多くのアーティストが歌詞を自作するようになり、徐々にではあるが自己表現する余地が与えられるようになった。。

英語、ロッア語と日本語にも挑戦中

 出る杭は打たれるどころか、伝統的に保守的な社会環境の中で、目立っては押し戻されるのを繰り返すのは、楽しくもあり難しくもあると、本音を語った彼女は、音楽バンドが解散し、2014年からソロ活動を始め、人間的にも一回り大きくなってさらには羽ばたいた。
 彼女は初めて歌手を目指すと家族に打ち明けたとき、牧師である父に承諾してもらう説得に苦労したという。しかしカチン・バプティスト教会(Kachin Baptist Church)の牧師であった父が、この騒動の時も、怒るどころか全面的に彼女を支えてくれ、ファミリーが一丸となって守ってくれたことを感謝しているという。そして今や、「東南アジアのリアーナ」(東南アジアの歌姫)とも呼ばれるようになった。
 Ah Moonを撮り続けるフォトジャーナリストのアン・ワンは、「客観的にミャンマーを眺められ、ビルマ語と英語で歌う彼女は、新しいミャンマーに求められる魅力あふれる存在であると思う」と述べた。
 「彼女の精神は今でもミャンマーですが、同時に外の文化にもつながっている。Ah Moonは古いミャンマーと騨しいミャンマーの完全な混合です。変革をしているミャンマーの象徴なのです」とまで言う。
 「“この尻軽の女、この国から出ていけ!”などといったひどい言葉を聞くのはショックでしたが、自分は何も間違ったことをしていないのだと自問しました。そして、私はただ正直に自己表現しているだけだと分かったのです。私はプロですから、歌、ダンス、ステージ衣装も含めて、皆さんに最高のパフォーマンスを見せたいとと思っただけなんですよ。」
 「私はこの国が好きです。私はこの国の文化を愛し、人には違った意見があることを尊重します。でも自己表現が悪いことであってはいけません。自分の性的なところを表に出してもいい、自信を持っていいと思います。ただ自分らしくありたいのです。」と、この騒動のことになると、彼女は本当に熱つぽく語った。
 「私は実にラッキーでした。自分の目標を若い頃に見つけることができましたから。決断したからには国際的なスターになりたかったんです。」という彼女は、2013年から始まった「ミャンマー(少数民族) 衣の祭典」のゲスト歌手として2016年に日本を訪れている。
 この年はミスミャンマーを始め、例年より多くのカチン出身のパフォーマーたちが参加した。
 このプログラムでは、ミャンマーの各少数民族が受け継いできた伝統的な衣装の披露はもちろん、民族の独特なモチーフを用いた現代的なデザインのドレスも観客を魅了した。そしてAh Moon は同胞の前で熱唱した。
 「日本は素晴らしい国です。友人のミャンマー料理研究家の保芦宏亮さんの実家の居酒屋でごちそうになったり、空手道場でも稽古をしてもらいました。今、日本語も勉強しているんですよ。チャンスがあればまた行きたいです。」
 現在英語のほかにロシア語もマスターしており、次は日本語に挑戦中だという。天性の音楽センスのみならず語学の才にもたけている彼女の今後の活躍を見届けていきたい。

<Ah Moon 略歴>
生年月日 : 1991年 (年齢 28歳)
生まれ : カチン州 ミッチーナ
学歴 : ヤンゴン外国語大学
ジャンル : ポップス
アルバム :「Min Pay Tae a Chit」、「Automatic」、
「MuyPeligroso」他
社会貢献活動:『エス二ツク ファション フェスティバル』
などへの参加

<栗原富雄 略歴>
1949年 東京生まれ。週刊誌、月刊誌の取材記者を経て
月刊「Seven Seas」編集長、月刊「Vacation」編集長
月刊「MOKU」編集局長を歴任後フリーランスジャーナリストに。
元日本旅行作家協会会員VIP取材 ゴルバチョフ元ソ連大統領、
ダライラマ14世、Dロックフェラー、Aダンヒル、他多数。
著書    『アンチエイジング革命』他多数。
活動    NPOライフシェアリング協会理事
一般社団法人 日本ミャンマー文化経済交流協会専務理事
一般社団法人 ニュービジネス協議会事務局長
Yangon Press 編集長

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