導│ミャンマーに貢献する 第1回 置田和永 Kazunaga Okita「東南アジアに世界平和の塔『自他平等碑』を 建てる会」代表 元ヤンゴン日本人学校校長

東南アジアでは日本軍の敗戦がすでに濃厚になってきた1944年2月に、泰緬双方の旧日本軍鉄道隊が示し合わせたかのようにタイのカンチャナブリとモン州のタンビュザヤに鉄道建設中に犠牲となった現地の労務者及び連合軍捕虜を悼んで慰霊塔が建てられた。

目次

タイ・ミャンマー慰霊の旅で考えたこと 英霊たちの名誉のためにも歴史的真実を

 東南アジアでは日本軍の敗戦がすでに濃厚になってきた1944年2月に、泰緬双方の旧日本軍鉄道隊が示し合わせたかのようにタイのカンチャナブリとモン州のタンビュザヤに鉄道建設中に犠牲となった現地の労務者及び連合軍捕虜を悼んで慰霊塔が建てられた。自他区別なく恭しく祀った石碑は、70数年間、雨にも風にも負けず当時のままの碑文が残され、今もなお歴史的事実を伝え刻んでいる。
 しかし、戦後になって、ミャンマー各地に日本兵の戦没者慰霊碑が建てられたものの、外国人犠牲者に対する供養塔は日本人の手で建立されることはなかった。そこで私は帰国してから岐阜市大洞にある願成寺の老師と出会い、また日本ミャンマー友好協会(岩内健二会長)や友人の賛同も得て、3年間かけて旧泰緬鉄道沿線の2カ所に世界平和の塔『自他平等碑』を建て、協力支援をいただいた現地の皆さんや僧侶の読経を交えて除幕式を挙行し、2017年11月末に無事3年間のプロジェクトを終えた。

 それから2年、今年2月に再びの妻ら3人を同伴し、ヤンゴンとモン州に建てられている墓地と慰霊碑の参拝、泰緬2カ所に建立した平和の塔のメンティナンスとそのお礼のために、旧泰緬鉄道沿線の慰霊の旅に出た。
 まずタイ側では、新設した泰日工業大学の学長を務め、日泰友好の懸け橋として活躍された功績で2014年4月に日泰の友好の懸け橋として活躍した功績で旭日中綬章を受賞した旧友であるタイ人のクリサダ氏の車案内で、カンチャナブリを流れるメイクロン河に面するJEATH戦争博物館に建立した世界平和の塔『自他平等碑』を拝した。 
 そして2年ぶりにミャンマーに入国、懐かしいミャンマー人の知り合い2人が私たちを待っていてくれた。
 翌日はジャパンハートが支援するドリームトレインを訪れて、その養育施設にお世話になっている生徒達の日本での進学・就労の道を探ってきた。その後、同伴した知人がいちばん行きたかったイーウェイの日本人墓地を訪れ線香を手向けた。実は、来緬する前に私が尊敬していた元鉄道第5連隊員で大阪府吹田市在住の木下幹夫さんが昨年10月20日に98歳で他界され、今回の旅行3日前に木下さん宅のご仏前でミャンマー行きを報告してきたばかりだった。そしてご家族のご意向で木下さんの遺骨をヤンゴン日本人会の管理しているイーウェイの日本人墓地に納骨していただく依頼と、ヤンゴン日本人会が管理している日本人墓地庭園の下見も兼ねていた。それから泰緬博物館のあるモン州のタンピューザヤに向かった。
 夜行バスで終点のタンビュザヤに着いたのは朝方の4時頃だった。途中毛布のサービスもあったが、車内は以前と同様、防寒具が必要なほど超冷房が効き、薄着の私は寒くて熟睡には至らなかった。そのバスターミナルにはバイクタクシーが5台ほど待機しているだけだった。彼らは、ここにはタクシーはないと言っていたが、博物館に掲示する大きな展示物や本などのお土産を持ってきたので、バイクタクシーの青年にチップを払って貸切りタクシーを呼んでもらい、1時間後に合流してまずは事なきを得た。
 博物館は午前7時から開館ということで近くの食堂でモヒンガーとタミンジョの朝食をとり、少し早く博物館に到着し、世界平和の塔『自他平等碑』を外から確認した。庭園は手入れが行き届き、花に囲まれて純白の自他平等碑は一段と美しく輝いていた。そして感謝の気持ちで入り口をくぐった。
 しかしその瞬間、自分の目を疑った。以前より露骨ではないものの、いつの間にか、再び旧日本軍鉄道隊員が一人鞭を持って現地労務者を酷使しているようなシーンが復活していた。
 少なくとも木下さんの部隊では労務者や捕虜と一緒に汗を流すことはあってもそのようなことは断じてなかったという確かな証言を基にして、2年前にはモン州政府に木下さんから、未来志向でもう少し歴史にも配慮していただけるように文章で陳情をしていただいていた。一方、私のミャンマー人の知人がモン州政府の高官らとの信頼関係を持っているということで、平和の塔の建立の許可依頼とセットにして、2016年1月から3か月かけて、2体の日本兵のモニュメントを撤去していただく運動を続けた。
 その結果、幸運にも3か月後に平和の塔が完成した2016年3月には、博物館側のご高配で日本兵のモニュメントは、敷地の裏に展示されているSL機関車を守っている位置に移動されていた。翌月の4月21日にはモン州知事をはじめ地元の人も交えて厳粛な中、除幕式を無事終えることができた。

 早速、新しい博物館長にこれまでの事情を説明し抗議したが、日本兵の鞭は外すが、それ以上は上が決めたことで何もできないという返事だった。ただ、2階に展示品として提供した戦争当時の日本の兵隊さんの平和を願う思いが伝えられる絵画等の掲示はそのまま維持されていて、日本から持って行った当時の軍服も2年前に私たちがヤンゴンで受注したガラスケースに入れられた状態で変わりなく展示されていて安堵した。また庭園では世界平和の塔『自他平等碑』は花に囲まれ、新たに案内表示もされていて有難かった。ただ土台が塗装だったため2年で底部の一部が剥げてしまっていたので、磨けば美しくなるように半永久的にと白いタイル張りのメインティナンスを博物館長に依頼した。
 そして今回は2016年4月の除幕式の模様を掲載した「Yangon Press」の日本語版とミャンマー語版を拡大し、額に入れた状態で博物館内に展示していただいた。

 その後時間もなかったので、近くにある旧日本軍鉄道隊員が建立した日本寺と慰霊碑を守っていただいている寺院でモン族である95歳の高僧と2年ぶりにお会いし、老師から日本兵が駐屯していた時代のお話を聴き、残念な気持ちを引きずりながら夜行バスターミナルのあるモウラミャインへと向かった。
 旧泰緬鉄道の建設当時の旧日本軍各部隊の実態は定かではないが、戦時下のこと、日本軍の鉄道隊員が鞭を持って労務者や捕虜を使役し、また酷使に近い場面もあったのかもしれない。
 しかし、少なくとも木下幹夫さんの部隊では、1943年の10月に泰緬双方から鉄道が連結された時にはオーストラリア兵百人の捕虜一人ひとりに「サンキュー」と感謝の気持ちを込めて握手をされたという。また戦後40年間で27回にわたってタンビュザヤへ慰霊の旅をされ、町ではアペー(お父さん)と呼ばれるほど慕われておられたという。
 そうした直向きなお姿がイギリスBBC放送にも取り上げられ、2015年6月、木下さんは旧泰緬鉄道の捕虜だった元英国兵らにイギリスに招待され、互いに友情を交わしたことも歴史的事実として残して置きたい。さらに2016年1月4日に挙行された博物館の開館式には、日本人でただ一人モン州政府から招待を受け、州知事と同格で二千人を超える来場者の前で、ミャンマー語で笑いを誘ったご挨拶をされたという。お蔭様でこの度ヤンゴン日本人会のご理解により木下幹夫さんの遺骨は、この3月末にはイーウェイのヤンゴン日本人墓地に埋葬され、ご家族の願いで記念樹も植えられる運びとなった。ここに木下幹夫さんの功績を讃え、こころからご冥福をお祈り申し上げます。

置田和永 プロフィール生年月日 :1950年 岐阜県郡上市生まれ
学歴   : 1976年 立命館大学文学部史学科日本史専攻卒業
職歴  : 1976~1977年 滋賀県大津市立瀬田中学校社会科講師
1977~2011年 岐阜県羽島市立正木小学校 
郡上市立小川小学校 在イラクバグダッド日本人学校3年間勤務 
郡上市立明宝中学校 本巣市立本巣小学校 本巣市立席田小学校
郡上市立石徹白小学校 瑞穂市立生津小学校
羽島市立足近小学校 瑞穂市立本田小学校(定年退職)
2011~2012年 瑞穂市教育支援センター長
2012~2015年 ヤンゴン日本人学校長として3年間、学校運営に従事し退職。
現在、東南アジアの留学生支援活動を継続中、
「東南アジアに世界平和の塔『自他平等碑』を建てる会」代表 
著書 「僕の細道~奥州見聞」
「僕の細道~ミャンマー編(戦後70年の足跡)」

Tags
Show More