発見 ミャンマー伝統芸能「ザッタビン」、その‘‘光と影’’ 気鋭の写真家が記録し続けるめくるめく情念の世界

この「ザッタビン」の生きざまを捉えたショットを見ていると、1959年に公開され大ヒットとしたフェリー二の名作「道」を想起する。薄幸の大道芸人を演じた主演女優のJ.マシーナの愛くるしくも物悲しい瞳が脳裏に浮かぶ。ミャンマーの芸人たちも、喘ぎ苦しみながらも、この伝統芸能を継承をしていこうと必死だ。その心情がこの写真からひしひしと伝わってくる。

目次

アジアや西洋に根付いた 「大衆芸能」

 「芸能」という言葉はかなり奥が深い。本来は「芸術」と同義語で、先 天的に身についた芸または体で修得した技術,技能,あるいはそれを実際に駆使できる技,働きを意味する。
 中世では「芸能」は貴族の教養として必須であったが,近世に入って次第に武術さえも芸能化したという。その一方で,日本では生産活動に従事する一般大衆は、五穀豊穰(ごこくほうじょう),共同組織体の繁栄を願って神に奉納された「芸能」から,今日のいわゆる民俗芸能が伝承されてきた。またそのなかから,階級外にいる芸能を専門の業とする職業芸能人が生れてきた。
 近代に入って,「Art」の訳語として「芸術」という言葉が一般化するにつれ,現代演劇,音楽,ダンスなど,西洋文化の影響を受けたものは「芸術」として区別され,能,歌舞伎,人形浄瑠璃などの伝統芸能と,落語,講談,漫才,流行歌謡,奇術,軽業(かるわざ)などを、俗に「大衆芸能」と総称するようになった。
 この「大衆芸能」は、日本では数名から数十名の規模で運営・実施される劇団が代表格だ。主催者は座長と呼ばれ世襲制が多い。しかし他の伝統芸能ように、特定の流儀、家元などは存在しない。一座の多くが、近親血縁者で構成されており、幼い頃に初舞台を踏み、楽屋を我が家とし、一座の中で成長していく。やがて役者として座長を継ぎ、または一役者として舞台を踏み、あるいは独り立ちする。時には血縁者の座長を盛りたてたりと、その身内の絆は強い。最近は専用の芝居小屋は少なくなり、もっぱら温泉宿やホテルのホールや大広間での公演となってしまっている。
 大衆演劇の舞台は、芝居とショーの二部、三部構成が普通だ。人情劇や剣劇(時代劇など)が演じられ、日舞を基本とし演歌や歌謡曲にのせて踊り、歌う。そうした中からスターも生まれた。「下町の玉三郎」こと梅沢劇団の梅沢富美男の登場により、下降気味だった大衆演劇がマスコミの注目を浴び、人気を盛り返した。数多く存在した旅役者の一座のうち、江戸時代には、中村座・市村座・河原崎座の3つを江戸三座、「大芝居」と呼び、寺社境内などで演じられたものを「小芝居」と呼んだ。
 戦後からテレビの登場によりその人気は下火となったため、危機感を感じた東京・大阪・福岡の各劇団が相互扶助を前提に「東京大衆演劇劇場協会」・「関西大衆演劇親交会」・「九州演劇協会」の3つ団体を創設した。そうした中で前記した梅沢富美男や「チビ玉」の通称で知られた嘉島典俊、「流し目王子」で人気急上昇した早乙女太一などのスターが生まれ、日本の大衆演劇が息を吹き返した時期があった。

徹夜で夜通し行われる 「ザッタビン」の公演

 「大衆芸能」と呼ばれるものは日本だけでなく、世界、特に西欧やアジアにも存在する。ミャンマーでは「ザッダビン」(ZatTha Binザップエとも呼ばれる)が代表的な大衆芸能のひとつで、一般に、この「ザッダビン」の一座は、パゴダや町の大きなお祭りに合わせて全国を巡業。パゴダの敷地内や近くの広場に作った仮設小屋で夜通し公演することが多い。
 今回掲載した写真は、ミャンマーの伝統的な文化、人間、慣習などを撮り続ける気鋭の写真家Ko Zarni Myo Win氏が、一年以上の月日をかけて彼らと寝食をともにしながらファインダーに収めた貴重なショットである。そこにはまさに鬼気迫る情念の世界が記録されている。
 伝統芸能の「ザッタビン」は、インワ王朝のニャウンヤンNyaung Yan 時代(1599~1605)に始まったと考えられている。当時の壁画などにその痕跡が残されている。そして第2次コンバウン王朝時代までは大変な人気を博したといわれている。その後、この伝統芸能は今日まで代々脈々と受け継がれてきた。
 ミャンマーにはこんな言い伝えががある。「芸人が帰れば、その場に記録が残る。音楽家が帰れば、歴史の内容が残される。」ということわざである。情報文化などまだない遠い昔には、ミャンマーの伝統芸能はエンターテインメントというより、宗教、伝統、文化などを伝える貴重な情報伝達手段の役割を果たしていたのだ。
 1920年ごろから1980年当たりにかけては、娯楽の乏しかったミャンマーでこの伝統芸能はまさに黄金時代を迎えた。優秀な芸人のU Phoe Sein 氏、Aung Ba La氏、Sein Ga Tone氏などのスターを輩出し、Shwe Mann Tin Maung氏、Myo Taw Thein Aung氏などの名優たちの時代まで、ファンも多く、観客と芸人が一体となってこの芸能を盛り上げていたという。
 「ザッタビン」の開幕はなんと夜の10時すぎ。満天の星の下でスタートする屋外ステージの場合が多い。出演者がステージの上で仏像に向かってお祈りした後、ビルマの歌謡で開演し、次いで伝統舞踊が披露される。ビルマの伝統的な楽団、「サインワイン」をバックに芸人たちが優雅に踊る。その後は、現代風の歌とダンス、現代劇、漫才、漫才師同士がかけあいながらの伝統舞踊と続くのが一般的のようだ。芸人としても誇りを持って舞台に望んだ。観客も尊敬の念を持って応援したからこそ、この大衆芸能の人々も、賑やかな世界の中にいられた。全盛期には、一つの芸能団組織には、80人くらいのメンバーがいたという。国内各所に固定ファンがおり、終演を迎える朝方まで徹夜で応援をする人も少なくなかったそうだ。
 芸人やメンバー側としても、伝統音楽ばかりでなく、オペラ仕立て、近代音楽、男女の舞踏、仏教的な音楽演奏まで常に趣向を凝らした演目を用意した。しかしそれでも観客は満足できず、芸人が使用した小道具や、舞台のオープン時に招待して、お土産などを渡したそうだ。女性の観客の中には好きな男性芸人に、たばこの中に金の固まりを入れて巻き、手渡すという習慣もある。日本風に言えば「おひねり」のようなものだった。

公演がない時にはビンを 売って生計を

 そうした華やかで懐かしくもある全盛期とは打って変わって、テレビや映画などの娯楽が増えた最近では、「ザッタビン」は衰退の一途をたどっている。この世界に50年もいた元芸人で、最後は管理者もやったMyay Lat U Saw Hlaing 氏は語る。
 「最近、ネットやテレビ、マスメディアが出てきて、ミャンマーの伝統芸能の分野も衰退しています。現在この国では、伝統芸能団体が100以上残っています。伝統文化が強いマンダレーを地盤にする団体は60を超えます。」
 こうした団体は通常は助演、脇役を合わせれば60人以上の役者が必要だという。主役の男性芸人が一人、助演の男性芸人が3人、脇役が5人~8人、お笑い芸人は4人~6人、また主役の女性芸人は一人、脇役が8人~10人くらいの構成だ。
 伝統音楽を生業にする団体「Myanmar Orchestra」は、オーボェ、ブロンズサークル、ゴング、ショットドラム、ハーモニカなどを含め、6人~8人で構成されている。このほか音声係、電気照明、幕引きなどの裏方も20人くらいいる。しかし、この団体のメンバーの収入は薄給だ。一般の労働者が6千Ksの日給をもらう現代で、メンバーたちは徹夜をしても収入は6千Ksから高くても1万Ksしか得られないという。
 「日給取りなら一年中働けるが、伝統芸能ではイベントがないと無収入になります。だからイベントがない季節には生活苦になる。仕方なく、一般のメンバーは、収入を得る方法を模索します。Sein Myint Khine さんというかって主役を務めていた女性は、舞台が休みの時は、使用済みのビンや器を集め、それを売って生活の糧にしていたといいます。
 若い時からこの世界に入ったため、彼女はほかの仕事に就く自信がなかったのです。それでもたまには、別の芸能団体がメンバーを増やす機会があります。その時には仮の一員として採用されることもある。脇役のAung Kyaw Myo さんは、休みの時は、塗装工事をやって家族を支えています。元男性芸人のU Pyi Kyaw 氏は、芸術用語や知識が豊富だったので、休みには仏事イベントなどで司会者をやっていますし、メンバーの多くは露店で、たばこ、コーヒー、ご飯、焼きそばなどを売って生計を立てていますよ。
 もちろん生活が苦しいことは一番辛いですが、次の公演場所への移動も楽ではない。公園が終了すれば、100マイル以上距離がある
別の町にその日のうちに移動しなければなりません。荷物や公演道具であふれるトラックの中で仮眠しながら、イベント会場に向かうのです。それを我々は『芸能団体カー』と呼びます。」
 資金不足は深刻だ。去年、この芸能団体カーが事故を起こし、10人以上のメンバーを一度に失った悲しい事例もあったという。気候や環境の異なる地方での公演も大変で、マラリアにかかりながらステージで踊り続けて死んでしまった芸人もいた。しかし物理的に親元にその遺体を送り届けることができず、イベント会場の村で埋葬したという胸が詰まる話も聞いた。
 しかしそれでもこの伝統芸能の世界に惹かれ、懸命に芸を磨き、そしてパフォーマンスをしながら伝承していこうとする芸人たちはまだ存在する。
 我々日本人には知る由もないから彼らの生活の”光と影“を、写真家Ko Zarni Myo Win氏はライフワークのひとつとし、今後も撮り続けていくという。

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