発見│ミャンマーの観光スポット Bagan バガン

アノーヤターやチャンシッター王たちの栄華をを偲ぶ旅 ビルマ初の王朝が誕生したミャンマーの聖地を歩く まるで時間が止まったような感覚だった。緑の草原の中に点在する無数の仏跡が朝晩の柔らかい光に照らされて揺らめいて見えた。偉大な王や村民たちによって建立された一つ一つの仏跡に、はるか昔の王朝の歴史と栄華を垣間見ることができる。

目次

ヤンゴンの喧騒とは別世界の静けさ 上座部仏教の聖地として映画を極めた

 ヤンゴンから飛行機で約1時間少々でバガンの玄関口「ニャンウー空港」に到着する。高速バスでは10時間かかるから、やはり空路は早い。
 その空港だがまさに必要最小限の設備施設を備えた素朴な威容で、世界3大仏跡の聖地の表玄関としては少し拍子抜けする。しかし一歩町に足を踏み入れると、ヤンゴンの喧騒に慣れ親しんでいた者にとっては、まるで時間が止まったような不思議な感覚に襲われる。空気も実に新鮮である。
 カンボジアのアンコール・ワット、インドネシアのボロブドゥールとともに、世界三大仏教遺跡のひとつに称されるバガンについては、あまりにも有名なので一般的な情報はあえて割愛するが、前記2つの仏跡が一つまたは2、3の巨大遺跡の現存状態であるのに対し、バガンは推定で約3000近い寺院、仏塔などの遺跡が約40平方kmの緑の草原内に散在する点で類例のない仏跡といえよう。
 イラワジ川中流域の東岸の平野部一帯に、一部が城壁に囲まれたオールドバガンは、考古学保護区に指定されており、点在するパゴダや寺院のほとんどは11世紀から13世紀に建てられたもので、大小さまざまである。本来は漆喰により仕上げられた鮮やかな白色をしていたが、管理者のない仏塔は漆喰が剥がれ、赤茶色のレンガの外観がむき出しになっている例が多い。
 バガンには王や王族が創建した以外に膨大な数の仏塔や寺院、僧院がある点でも前記2つの仏跡とは異なる。村民の生活環境に寄り添うように仏塔や寺院、僧院があり、それらが民の祈りの場として存在、機能している点も特色だ。それはこうした仏教遺跡が観光対象としてだけではなく、民の心の礎、祈りの場として今なお現存していることを物語る。カンボジア、インドネシアの仏跡が王朝主導で創建された巨大遺跡であるのに対し、バガンには一般村民が創建したものも数多くあるのだ。

 バガンの仏跡が創られた経緯や、現在まで村民の生活の中で死守されてきた歴史的背景には、この土地に根付いた上座部仏教のもとで、世界的にも例のない富の格差を補正する社会的慣習と制度が今なお、バガンの社会に浸透していることも見逃せない。
 終日、オールドタウンの仏跡群を見て回っていると、唐突だが20世紀初頭に米国で名をはせたトーマス・C ・ウルフ(1900~1938)という作家のことが思い浮かんだ。
 ウルフは4本の長編小説と複数の短編、戯曲などを残して38歳の若さで世を去ったが、当時の米国文化や風俗を鮮やかに反映させ、ウルフの死後、彼と同時代の作家W.・フォークナーは、「自分たちの時代で最も才能ある人物だったかもしれない」と賞賛したほどの作家だった。
 しかし彼は好奇心旺盛な男で、誇大妄想の塊みたいな男だったという。彼の自伝的小説によれば、夜中にベッドの上で彼が生まれてこれまで見た橋の数やビルの数、出会った人の数などを克明に数え上げ、世界にあるそれらすべてを済ませるまであと何年かかるのかと嘆息していたという。バガンに無数に点在する仏跡群を駆け巡っていると、もしウルフがこの場にいたなら、この遺跡群をすべて見終えるまで、あと何年かかるのかと嘆息したに違いないと想像した。

今でも語り継がれる2人の偉大な王たち 日本でいえば信長と秀吉の関係か

 バガンは長らく謎のベールに包まれてきた。1960年代から軍事政権が続き、半ば鎖国状態だったからだ。その後ミャンマー情勢が変化し、民政移管が進んでからバガン遺跡の封印が解かれる時代がやって来た。
 この発見ページでは、これまでミャンマー、いやビルマの王朝の歴史を中心に紹介してきた。しかしバガン王朝はビルマ初の本格的な王朝ということで、あまりにも有名なので、ここでは詳しく触れない。
 私の興味はこの王朝をゆるぎないものにした2人の王にある。実在するバガン王として名声を残したアノーヤター(1044年~1077年)と第3代王のチャンシッター(1084~1113年)である。
 ミャンマーに来てヤンゴンに住み始めてからほぼ毎日のようにダウンタウンの「アノーヤタ―通り」を通っている。それ程慣れ親しんでいるこの王は11世紀にミャンマー全土を制圧し、バガン王朝を建国した英雄である。
 しかし、彼は大きな問題を抱えていた。当時のバガンは現在の仏教ではなく、古い密教の一派が勢力をふるっていたという。主導者アリー僧たちが憲政を牛耳っていた。30人のアリー僧が6万人の弟子を抱えていたという。
 しかし彼らは毎夜酒宴を繰り広げ、放蕩三昧の生活を続けた。そうした傍若無人なアリー僧の振る舞いに頭を悩ませていたアノーヤターは、ミャンマー全土を仏教の布教に歩いていたアンマダッシーと出会う。彼はアリー僧とは対照的に戒めと秩序を重んじる人格者だった。

 アノーヤターはアンマダッシーに悩みを打ち明けた。するとアンマダッシーは王に仏教を熱心に説き、仏教に目覚めたアノーヤターは宗教改革に乗り出したのだ。その後軍を使ってアリー僧たちを一掃してバガンに秩序を取り戻したという逸話が残る。
 王は仏教を民衆に広めるために数々のパゴダや寺院を建立。そしてその後の歴代王たちや庶民は次々と仏教施設を創建した。アノーヤターの死後、第2代王ソウルーを挟んでわずか7年後に3代王に就いたチャンシッターも、ミャンマー国民にはよく知られた王様である。
 今から13年前の2005年に「King Kyan sit」(チャンシッター王)という映画が公開された。監督と主演を務めたのは前ミャンマー映画製作家協会会長で、当時絶頂を極めた俳優Lu Min氏だった。
 このチャンシッター王の数奇な人生や波乱に満ちた生涯は、これまでビルマの文学、演劇、映画などの格好の題材となっていた。チャンシッターは1084年に54歳で即位してから実に29年間、83歳まで在位した伝説的な王であり、パガン王朝に隆盛をもたらした賢王としても名高い。
 しかしビルマ王朝史を紐解いてみると、彼がパガン王朝の実力者であったアノーヤターの実子か家臣だったかは判然としない。王朝滅亡後に編纂されたビルマ語の王統史には、アノーヤターに献上されたインド女性が身ごもった子という説も記されている。そのためチャンシッターがパガン王朝の本流に属していたどうかを疑問視する声もある。
 研究者のひとり大野徹氏は王統史内の記述に彼がアノーヤターの血筋に連ならないことを示唆する箇所が複数あると記している。また、別の研究者G.E.ハーヴェイはアーナンダ寺院内のチャンシッター像の容貌が、ビルマ族には無い特徴を備え、インド系の人種に近いことを指摘している。
 王に即位する前のチャンシッターはアノーヤターの配下として各地に従軍し、モン王国遠征では戦功を立てた。モン族が統治するペグー(現バゴー)にクメール人兵士が侵入した時、アノーヤターはチャンシッターを救援に向かわせ、彼はインド兵を率いて侵入者を撃退した。
 しかしペグーからパガンに戻る際に、モン王女キン・ウをアノーヤターの王妃として護送するが、チャンシッターはその道中で彼女と恋に落ちる。この事件がアノーヤターの知るところとなり、チャンシッターは王宮から追放され、チャウビュー(現在のサガイン)で隠棲生活を余儀なくされる。
 アノーヤターはその後実子ソウルーを第2代王に即位させるが、同時にチャンシッターを宮廷に呼び戻した。だが、再びキン・ウと関係を持ったため、現在のヤンゴンの南ダラに遠ざけた。ところが再びモン族が反乱を起こす。チャンシッターにも討伐の命が下り従軍したが、鎮圧中にソウルー王が戦死したため、廷臣たちによって3代王に擁立された。
 チャンシッター王は灌漑事業などを積極的に進め、ビルマ族とモン族の融和政策を実施した。しかし残された彼の碑文は全てモン語で書かれていた。他の王の碑文には一切モン語が使用されていないことから、前出の大野氏は、彼の出自はモン族の血を引いている可能性が高いのではと推測している。
 いずれにしても恋愛、不倫、戦闘、出自の謎など幅広い要素が一杯のチャンシッター王の生涯は映画のテーマとしては理想的で、Lu Minn氏もプロデューサーとして映画化には並々ならぬ意欲をみせ、役者としても好演した。
 こうしてみると、アノーヤターとチャンシッターの関係は、日本の戦国時代、安土桃山時代を築いた信長と秀吉をほうふつさせる。百姓から太閤まで上り詰め、豊臣政権を権勢を振るった秀吉は、数々の武功を立て、信長の妹のお市の方の娘茶々(のちの淀君)をめとった経緯など、どうしてもチャンシツターの生涯とオーバーラップしてならない。

日本の鎌倉時代にレンガが 使用されていた 初めて訪問者はガイドなしでは回れない

 栄華を極めたバガン王朝は13世紀に滅亡する。パガン王朝最後の王ナラティハパテは、政治には無頓着で仏教にのめり込んでいた。そのため仏教寺院の活動に寛大で税金は免除されていたのだ。しかし、その免税措置が王朝の危機を招いたともいわれている。
 国力が衰弱していた時に追い討ちをかけたのがモンゴルの襲来であった。当時のモンゴル帝国は地球上の陸地の4分の1を支配下におく強大な帝国を築いていた。フビライ・ハンの軍隊は元寇の6年後にあたる1287年、パガン王朝に侵攻。モンゴル軍の前にラストキングナラティハパテ王はあっけなく逃走し、王朝は滅亡した。
 しかし、パガンは政治的な機能は失われたが、幸いなことに美しいパゴダや寺院は破壊されることなく残された。そして仏教の聖地として人々から愛され続けてきた。2016年には大地震に見舞われ、多くの仏跡が破損したが、現在では修復も順調に進み、その爪跡もあまり見かけなくなった。
 ミャンマー政府がバガンをユネスコの世界遺産として登録しようとしたが、1997年にそれは見送られた。これは、国家平和発展評議会(SPDC) が、近代的な建材を使用して修修復したためと、その後ゴルフコースや南西のMinnanthu近郊に高さ61mの展望台を建てたためだともいわれている。しかし、バガンはミャンマーにとっても、世界遺産委員会にとっても、「未来の世界遺産」としてリストアップされている重要な遺跡であることは疑う余地はない。

 小さな田舎の村だったのが、急激な観光客の増加によって、徐々に開発されてきている。馬車や牛車での観光も可能だが、普通に歩くよりも遅い。あくまで乗ることが観光だと考えて楽しむべきだ。熱気球観光という選択もある。西洋人を中心に人気がある。
 バガン王朝は日本の平安時代から鎌倉時代に栄えた。鎌倉時代に元寇がここバガンでも起きたが、日本とは違い王朝は元によって滅ぼされてしまった。その時代の遺跡にレンガが使われていたのには驚いた。日本で本格的にレンガが使われるようになったのは明治時代の富岡製糸場からだからだ

 バガン遺跡を見るときにここだけは見逃せないという場所がいくつかある。一つ目がオールドバガンにある1091年建立の「アーナンダ寺院(Anada Temple)」だろう。「アーナンダに行かずしてバガンに行ったと言うべからず」と言われるほど外せない場所でもある。四方にある入口から中央に向けて伸びるおよそ34メートルの回廊と、それら4つの回廊が交差する寺院中心部に聳え立った大伽藍(だいがらん)が圧巻。回廊の壁に造られた採光窓から差し込む光で照らされた仏像の神秘的な美しさは息をのむ。
 オールドバガンの壮大な原野にそびえ立つ「タビィニュ寺院(Thatbyinnyu Temple)」は高さ65mを有するバガンで最も高い寺院だ。1144年にバガンの4代王アラウンシートゥー(Alauncsithu)によって建てられた。仏陀を意味する「全知者」とも呼ばれており、白い漆喰で施された壁に囲まれた建物は2階建ての造りになっている。1階は黄金に輝く美しい仏像を拝観でき、東西南北の四方にエントランスホールがある。
 3番目に勧めたいのが、アノーヤター王の遺作であるオールドバガンの「シュエサンドーパゴダ(Shwesandaw Pagoda)」だ。1057年に建立つされ、5層のテラスの上に、2層の造りをした八角形の台座を基盤としたパゴダが乗っている。パゴダ内部にはモン族から奪い取った釈迦の聖なる遺髪が収められているという。
 ともあれ、バガンの仏跡はとても1日では回れない。狭いエリアに点在しているとはいえ、地元のガイドなしでは無理だろう。しかしとても気持ちの和む町であることだけは確かだ。

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