特集 Deep in Myanmar 「ミャンマーの深層」ミャンマーのそこが知りたい 伝統芸能「操り人形『Myanmar String Puppet』の世界」前編

ミャンマーの伝統芸能(Tha Bin )といえば、大きく分けて「ZatTha Bin」 (男女の芸人が舞う古典的な舞踊)、「A NyeintTha Bin」(女性芸人やお笑い芸人による古典的舞踊)、そして操り人形を駆使した「Yoke SoneTha Bin 」の3種である。その中で最も難しいといわれる操り人形は、日本の文楽にも通じる非常に芸術性の高い伝統芸能だ。そこで今号から2回に分けてこの「操り人形の世界」を探索してみよう。

目次

バガン王朝時代から 引き継がれる伝統芸能

 操り人形の世界にも、ハンドパペット(HandPuppet)、紐人形(String Puppet)、影人形(Shadow Puppet)、ステック人形(Stick Puppet)など四種の芸域があり、代々脈々と続く伝統芸能は紐人形で、紐を操る技が重要視される。
 ミャンマーでは、「人形の手始めは、3本の堀に囲まれるバガン時代から」という伝説がある。王朝時代から続く操り人形は、トップレベルの芸能と賞賛され、田舎や都会に関係なく広く親しまれてきた。
 今回、この芸能を継承し、日々鍛錬を続ける技能者の方々にお話しをうかがう機会を得た。現在第一人者といわれるU SeinTunKyi師匠、息子さんのU Sein Aye Myint氏、教え子のSithu U Htun Soe, HtweOo 、そして「Myanmar パーペットグループ」のU KhinMaungHtwe氏などの方々がこの伝統芸能について貴重な話を披露してくれた。

人間国宝的な師匠に話を伺う

人形芸術は音声が大きな決め手となり、人間が舞う舞台芸能は表情が重要視されるといわれる。人形をまるで生きているように操るには、バックのナレーターの声が大事なのだという。
 ミャンマーの人形芸術には舞台に出る順番が定められている。男性の主人公、女性の主人公、そしてお嬢さん、お笑い芸人、鳥、龍、馬、鬼、王様、王女、貴族、金持ちの男性、魔女など、基本的に26種類の人形が順番に出演する決まりがある。
 また、人形が登場する位置で意味合いが違ってくる。そして人形の踊りに即した音声を当てはめるのも重要な役割だ。むろん人間の表情に近い人形を操るため、制作段階で可能な限り自然に近い形で作らねばならないという。
 操り人形界の人間国宝ともいうべき第一人者のU SeinHtunKyi師匠は言う。
 「私は10歳から伝統芸能について勉強しました。ミャンマーで一番有名な伝統人形芸能団体で17年間弟子としてこの芸を磨きました。その当時、ヤンゴンにはそうしたステージを持つ劇場が20軒以上ありました。劇場はとても規則が厳しく、芸人には相応の給料が厳格に支給されました。そして違う団体からの芸人の引き抜きや兼業も御法度でした。」
 現在80歳を過ぎてもなお現役の師匠は、まさに操り人形一筋に生きてきた文化人であり、ミャンマーの伝統芸能界では極めて希少な存在なのである。

観客の声援と反応が励みになった

 劇場で修業したあと師匠は「PonnaPyan U Kyaw Aye」という団体で15年間出演した。1955年ことだった。出演するにあたり、金が0.01Viss で250ks程度の時代に15万ksものデポジットをもらったという。
 日給は6ksでスタートしたが「5ksでこんな素敵な舞台が見れるんだよ」という観客の声が聞こえたときは、報酬の問題ではなく、本当に感激したという。それは今でも脳裏に焼き付いているそうだ。
 「当時、入場料は大人5ks、子供2ksでした。でもその日から私の日給は35ksまで上がったんですよ。」過去を振り返る師匠の目は遥か彼方を見ているようだった。
 当時の操り人形劇は基本的に使用される人形は28体だったが、現在は36体と増えた。
 「私らの時代には独立希望者がいても、先生が見て技術が優秀ではないと認めてくれない限り不可能でした。例えば、人形の操り方は何種類あってもできなければならないのです。子供の人形なら紐が13本入りますが、神様の人形は17本もあり、一番難しい。また男性の主人公は16本、女性は60本もの紐が入っているんですよ。」
 ちなみに師匠は女性芸人のDawKyi Lay さんと結ばれ、6人のお子さんを授かったという。1967年にはミャンマー文化省から「伝統人形芸能人」として、いわば政府のお墨付きを得た“国宝的”な芸人になった。

一時は下火になった伝統芸能

 「私が参加した芸能団体は多岐に渡りました。『U Than Dine グループ』を始め18の団体に出演しました。団体によっては人気や評判が異なり、それぞれに固定ファンがいて観客の反応も凄かったです。1967年からは現在まで100回以上の海外公演も行っています。ネパール、インド、イギリス、ロシア、ドイツ、マレーシア、タイ、日本などへ行きました。」
 日本へは何回も行ったというが、舞台公演のみならず、日本人の教え子や弟子が何人か育てることができたという。芸術交流の大使のような存在だったが、現在も若者たちにその技術が引き継がれている。
 しかし1980年あたりから、この伝統芸能への人気が下火になってきた。斜陽芸能とまで言われるようになった。年に10回も公演できなかったときもあったが、それでもめげずに頑張ってきたという。
 「ですけど、幼いごろからのめり込んだ世界ですから、日が暮れたら、翌朝にはまた陽は上ると、あきらめませんでした。おかげさまで最近は公演の回数がまた増えてきました。
 年に40回程度の公演に出演できるようになってきたのです。来年はこの芸能に関する教室を開く予定です。国内外の生徒を問わず、どなたでも参加可能です。これから若者にこの素晴らしい伝統芸能を引き継いでもらいたいのです。」

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