顔・人│VIP インタビュー Thet Mon Myint テッ・モン・ミン Actress 女優

16歳でチン州から上京した少女が12年かかってついにミャンマーのトップ女優に上り詰めた。数々の挫折と屈辱を味わいながら、家族のために歯を食いしばった。アカデミー賞2度受賞は伊達ではなかった。

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モデル応募で予期せぬトップ合格

 日本の方にはまだ知名度は低いが、今やミャンマー映画界では知らぬ者がいないほどの有名女優となった。しかしトップ女優に上り詰めるまでには相当な苦労があった。
 生まれはミャンマー北西部のチン州。未だ州都に空港がなく、未開拓の山岳地帯が続くいわば辺境の地である。
 「だから小さいときは医者になりたかったんです。貧しい人や困っている人を助けられたらいいな、と子供心にも感じていたんですよ。」
 そうした志を抱いて彼女は16歳の時にヤンゴンにやってきた。まずヤンゴンで技術を身に付けるためにコンピューターを習い、就職して家族を助けたいと考えていたのだ。
 「兄が死に、家を失い、両親は苦労の連続でした。だから私が何とかしなければと、必死の思いで上京したのです。」
 しかし1年後の17歳の時にテッさんの思いもよらぬことが起きる。何気なく応募したモデルのオーデションにトップの成績で合格したのだ。何しろ17歳とはいえ、身長170センチを超す堂々たるプロポーションだった。
 「それからあの有名なティン・モー・ルィン先生の指導をうけさせられ、TV や 広告モデルの仕事をするようになりました。」
 これが彼女のひとつの人生の転機だった。しかし華やかな世界にスカウトされたとはいえ、生活は依然楽にはならなかった。

 「トップモデルならともかく、まだ駆け出しでしたから衣装も自前で用意することが多
かったのです。もちろん化粧品などもそうです。これが結構大変で、お金がかかりかました。これは本当に予想外だったんです。」
 しかし歯を食いしばってって頑張り、18歳の時ヤンゴン経済大学へ入学することができた。そして、モデルの仕事を続けていると、ついに映画界から声がかかった。
 「映画といっても最初は「石」というビデオ作品でわき役でした。それは当たり前です。何しろ演技の勉強などしたことがありませんでしたから、素人同然です。だからしばらくモデルの仕事を続けざる負えませんでした。両親や家族のためにお金が必要でしたから。」
 女優の仕事は想像以上に厳しかった。例えば言葉の訛り、チン州訛りが出て、ビルマ語の標準語で演技するのに非常に苦労したという。
 「映画活動が本格化してもこの訛りがウイークポイントになりました。そして演技力。これもだめでしたね。そんなとき見るに見かねたのか、有名な俳優さんが稽古をつけてくれ、演技指導もしてくれるようになりました。」
 しかしそうなると彼女は益々落ち込んだ。そして一度チン州に傷心の帰郷をする。
 「自信喪失です。もうやっていけないと思いました。でも故郷に戻って両親たちが懸命に頑張って生きているのを見て、自分は甘かった、ここでくじけてはだめだと自分に言い聞かせ、再びヤンゴンに戻りました。」
 19歳の時だった。そして2004年から本気で女優活動に取り組むようになった。

挫折を克服して本気で女優活動へ

 彼女はヤンゴンに戻り、ミャンマーの有名歌手のミュージックビデオのモデルとしての仕事もするようになった。2004年からはテレビコマーシャルの出演機会も増え、彼女の素朴な笑顔と爽やかなイメージはたちまち茶の間の人気者になっていった。気が付けばCM の女王と呼ばれるまでになっていたのだ。
 「町を歩ていると声をかけられるようになり, これでかなり自信がつきました。面白いもので、そうなると女優としても欲が出てきました。チン訛りも克服でき、演技もうまくなっていったみたいです。」
 そして彼女は2009年頃からトップ女優としての名声を築くようになる。3年後の2012年、「アダムとイブ」という恋愛映画で、ついに初のミャンマーアカデミー主演女優賞を獲得する。
 「2人の男性から恋心を打ち明けられ、その狭間で悩む女性という難しい役どころでしたが、しっかりとした演技ができたように思いました。でも賞を頂けるなんてことは夢にも思いませんでしたよ。ノミネートされたときも自信は全然ありませんでしたし、ほかにも有名な女優さんが候補になっていたし、決まったときは半信半疑で、本当に信じられませんでしたね。」
 この瞬間、彼女は名実ともにミャンマーのトップ女優に上り詰めた。チン州から上京して一度は挫折を味わい、苦節12年の歳月が流れていた。
 そしてその4年後の2016年に「MyLovely Hate 」で、再び主演女優賞の栄誉に輝く。
 「この作品も恋愛ものでした。父親に若い恋人がおり、その女性に私の片思いの男性が思いを寄せているという屈折したストーリーで、演技力も要求されました。自分は難しい感情表現などがよくできたとひそかに自信を持っていました。でも賞を獲れるとは、この時も思っていませんでしたよ。それにその時も有力なライバルがいましたから。」
デビューしたての頃は、彼女は男女の絡みとか恋愛者は苦手だったという。その苦手の恋愛作品で2度の栄冠を獲得した彼女は、今やこの国では押しも押され大女優となった。

11歳の時に日本で貴重な体験をする

 実は彼女は11歳の時に日本へ行った。Asian Pacific という組織が主催した「世界こども会議」というイベントで、ミャンマー国内8か所から選抜されたチン州代表として日本の土を踏んだ。
 「まだ子供だったので、日本の家庭にホームステイさせていただきました。その時に日本のお風呂が大好きになりましたが、湯船で泡をたてて浸かりたいと思い、ぺアレントの方に写真を見せてこうしたいのでですがと説明したら、驚かれていました。街のお店の自動ドアも珍しくて本当に日本では貴重な体験を沢山させていただきましたよ。」
 そのときからに日本は素晴らしい国だと思ったという。最近日緬合作の映画も作られるようになったが、いつか日本との映画にも出てみたいそうだ。
 「おかげ様で今は両親、家族も幸せに暮らしています。子供の頃は医者になるのが夢でした。しかしお医者さんだと助けられる人の数に限りがあります。ですから私は国民の間で知られるようになり、私の映画を見て下さるファンが増えれば、大勢の方を元気づけたり支援できるのではないかと思いました。それで頑張ってきました。」
 大女優になった今でも初心を忘れずに困っている人々のことを思う彼女の気遣いは、本当に素晴らしい。
 「3歳の娘と2歳の息子がいます。仕事は忙しいですがが、家族と一緒いられるときが一番幸なんです。」
 最後に「女優生活20年になりますが、何か思うことはありますか?」と水を向けると「まだ18歳の気分なんですよ」と、再び無邪気に相好を崩した。国民的女優と呼ばれる理由が分かったような気がした。

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