今月の視点 「マンダレー」に都市機能を分散してヤンゴンの飽和状態を回避すべし

日本は猛暑で大騒ぎ。ミャンマーはあちらより凌ぎやすいが、ヤンゴンを中心とした南部地域は本格的な雨期。お天道様が顔を出していても、すぐに怪しい雨雲がやってくる。だからヤンゴンでは傘は必需品で手放せない。

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ビルマ最後で最強の コンバウン王朝

 日本は猛暑で大騒ぎ。ミャンマーはあちらより凌ぎやすいが、ヤンゴンを中心とした南部地域は本格的な雨期。お天道様が顔を出していても、すぐに怪しい雨雲がやってくる。だからヤンゴンでは傘は必需品で手放せない。
 その点、先月中旬に取材で訪れたマンダレー、インワ、ザガイン地方は雨とは無縁で、連日のピーカン状態だった。これには少々驚いた。サラトラベルの橋本氏によると、バガンもこの時期雨は極端に少ないそうだ。日本の約1,8倍もの国土面積があるミャンマーだけに、北と南での気候変動があるのは致し方ないかもしれぬ。
 今月号の「発見」(P20-21)にそのマンダレーの取材記を掲載した。この街には過去2,3度訪れてはいるが、いつも別件が重なり、そのついでに街をちらちら伺うパターンが多かった。しかし今回は地元の歴史に詳しいミャンマー人にガイドをしていただいた。これは結果的によかった。体系的に説明を頂きながら、パゴダや僧院、歴史的にゆかりのある場所を訪れることができた。
 当方は以前からミャンマーの王朝の歴史に関心があった。ヤンゴンの街を見渡すと、「アノ・ヤーター」とか「ハンターワディ」、「シンソープ」などといったかっての王や女王の名がついた通りが目に付く。8世紀にピュー王朝として出現した長い歴史があり、国民の間でも親しまれている王朝にも関わらず、残念なことに今から132年前の1886年に当時の英国によって廃絶させられたビルマ最後の王朝の歴史には特に興味を持っていた。
 こうした消滅の仕方は世界のロイヤルファミリーでも特異なケースであり、最後の王「ティボウ」とその一族の晩年は悲惨極まりない境遇だっだ。その意味でも、この国の王朝の栄枯盛衰を調べ、機会があればマンダレーという街をくまなく歩き、ぜひその爪痕を垣間見たかった。

王一族に対する宗主国英国の 非道な処遇

 ビルマ王朝として3度目の都が開かれたのがマンダレーだった。俗にコンバウン王朝として有名なビルマで最強の王朝は、最盛期にはタイのアユタヤをも従えた強大な王国を築いたが英緬戦争で敗れ、王国は崩壊どころか、王と一族はインドに幽閉され、誠に哀れな生涯を送ることになる。伝統的な王室国家の英国なのに、ビルマ王朝に対しては敬意を払うどころか、非常に冷淡な処遇をした(このあたりの経緯は発見ページを参照)。
 その前のインドのムガール帝国を崩壊させたときも同様の仕打ちをした。それを考えると、先の大戦時に日本が満州国皇帝に祭り上げた愛新覚羅 溥儀(あいしんかくら ふぎ)のへの中国政府の処遇とは大違いだった。
 溥儀は中華圏最後の皇帝であり、その生涯を題材にした映画『ラストエンペラー』でも知られ、幼帝として2歳で清朝皇帝に即位した。
 ところが日本の敗戦とソ連の侵略を受けて崩壊した大満洲帝国皇帝を退位し、赤軍の捕虜となって中国に引き渡されたが、1959年に戦犯管理所からの釈放され、中国共産党の方針で北京植物園に勤務したが、すぐに政協文史研究委員会専門委員に就任した。
 溥儀は中国に文革の嵐が吹き荒れる中で腎臓がんを患った。しかし清朝皇帝という「反革命的」な出自の溥儀の治療を行うことで紅衛兵に攻撃されることを恐れた多くの病院から入院を拒否されたが、当時の周恩来主席の手配で、北京市内の病院に入院することができた。
 だが、溥儀が治療を受けていることを知った紅衛兵が病院に押しかけて騒いだため、医師たちは彼を放置した。その報告を受けて怒った周恩来は院長に直接電話して溥儀の治療を行わせたが、既に末期状態だったのでその治療のかいもなく、1967年10月17日、61 歳でその生涯を閉じた。
 余談だが、溥儀は教育もあり、博識だったという。当時のカリスマ指導者毛沢東とは違って、周恩来もかなりの知識人で、戦犯管理所から解放された溥儀と周恩来は、何度か中南海の主席の公務室で会談をして、議論もしたという。
 こうした話を知ると文革最中の中国でさえ、元皇帝に対してそれなりの処遇をしていたことがわかる。それに比べるとラスト・キング「ティボウ王」に対する英国の傲慢で非道なやり方は納得がいかぬものだった。

ヤンゴンの飽和状態が 限界に近づく

 マンダレーの「パレス」と呼ばれる王宮は、悲しいことに先のビルマ戦線での日英の激闘で破壊された。戦後復興されたが、建物威容はまさに壮麗そのもの。高価なチーク材の僧院が王宮を囲み、コンバウンの王たちはここで対外戦略を練り、時には盛大な酒宴を催していたのかと、邸内を歩いているとそんな光景が脳裏に浮かんできた。
 マンダレーの街はこのパレスを中心に整然と区画され、信号が極端に少ないのに、さほどの渋滞もない。ドライバーたちが譲り合う光景を何度も見た。車のけたたましい警笛音もほとんど聞かない。だからヤンゴンのように、運転者たちに我先にという殺伐とした雰囲気もない。同じミャンマーなのにこうも違うものかと思うほどである。
 ヤンゴンは雨期に入ってからなぜか道路のあちこちに穴が開きはじめ、運転していても危険極まりない状態になった。YCDCによる補修作業も始まっているが、そうなると渋滞する場所もますます増えてきた。
 マンダレーは道路状況もいい。小道に入れば舗装道路は少ないが、主要道路は陥没や破損など見当たらず、車もスムーズに走れる。だからある程度時間が読めるし、ビジネスのアポも安心だ。
 ヤンゴンに戻ると相変わらずの激しい渋滞に見舞われた。これはやはり根本的にヤンゴンに経済活動が一極集中しているからではないのか。
 そう考えると第二都市マンダレーをもう少し活用できないものかと思ってしまう。将来的には都市機能や役所機能をこの街に分散することを考えるべき時に来ているのではないか。
 このままでは本当にヤンゴンは限界を超えた飽和状態になってしまう。かっての王都を散策していると、ふと居を移してみたくなった。

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