Dala ダラ ヤンゴン川向こうの不思議な世界へ日帰り旅。 貧しくとも懸命に生きる人々がいる町を探索

 川の向こうには何があるのかーーー。ダウンタウンの川沿いを歩いていると、ふとそんなことを思う時がある。高層ビルから見ると一面の緑に覆われた田園地帯に映るが、向こう側には我々外国人が知る由もない様々な生活を送る人々がいた。今回は日帰りも十分可能なDalaの町を訪れ、環境保護を考えたリサイクル品などの手作り工房を中心に探索してみた。

目次

人口は約17万人。住戸は約3万6千戸という規模で、ヤンゴン川をフェリーで渡ればすぐ中心部に突き当たる町がDalaだ。
 しかしこれほどヤンゴンのダウンタウンに近接しているにもかかわらず、町にはさしたる産業もなく、人々は対岸に渡って就職するか、自己資金でできる小規模な町工場を営むかの選択を迫られるという。
 この町へ行くには、ヤンゴン川沿いのパンソーダン港からフェーリーに乗らなければならない。韓国の支援で橋の工事が開始されたが、現状の足はまだフェリーとなる。最近ではダラへの見学ツアーも増えて来ていると聞くが、そのフェーリーは3台あり、日本からの寄贈船だ。通常は毎日うち2台が運航し、1台が必ず休むようになっているという。大事に使用されているのだ。
 運航は早朝5時から夜9時まで1日に46回運航される。フェーリー代は往復でミャンマー人は200ks(約17円)、外国人は4000ks(約350円)だが、日本の寄贈船なので日本人は無料という特典がある。筋の通った話で嬉しいが、財政的に大丈夫なのか、という心配の方が先に来る。ただし、パスポートだけは持参した方がいい。

 Dalaは24のタウンシップと53の村群で構成されている。仏教の寺が33軒あるが、教義はそれぞれ異なるという。カトリック教徒も意外に多く、ヤンゴン方面を望む川辺にはイスラム教の大学までできている。
 朝9時30分にパンソーダン港からでフェーリーに乗った。わずか10分足らずの距離だ。到着するとサイカー(三輪車)、オートバイ、屋根付きの三輪車などが待ち構えている。行先を告げ、交渉制で利用する。
 取材班がまず向かったのは、リサイクルでプラスチック製品を作っている工房。完成品がショールームに展示されていた。
 工房では取締役のDaw Wendy Nempelさんが快く対応してくれた。彼女はチン族出身で、あちらでは機織りをしていたそうだ。チンからヤンゴンに移住してすでに14年が経っそうで、こちらでは経理として役所勤めしたが、結婚を機に、ローカルNGOでヘルスケア・アカウンタント(Health Care Accountant)として屋台骨を支えた。
 2014年5月、イタリアの会社がゴミ処理事業に関してヤンゴン市役所(YCDC)と請負契約をした。その事業の協力会社として、彼女のもとへ連絡が来たという。彼女の会社は、2013年~2016年までのゴミの再利用をする事業を行っていたため、彼女のもとへ連絡が来たのだ。
 プロジェクトの予算や具体的に活動すべきプロジェクトが決まっていたため、土地を探していた時に、自分が所有していた土地を提供したそうだ。

 「このショールームもリサイクル品で作りましたよ。屋根は車のタイヤで、壁はぺットボトルです。だからショールームの名前もビニールの袋(ビルマ語チュチュエイ)という意味から「チュチュ」と名付けました。ごみのなかでも一番処理がやっかいな「チュチュエイ」には注意が必要だという警告を込めてそうしました。」
 リサイクルショールームをオープンさせたのは3年前の2015年だった。政府とのプロジェクトは終了したが、リサイクルに関してはまだ目的達成ができていなかったため、Wendy さんの土地を再びそのまま使用することになったという。最初はスタッフ二人で始めたが、現在は50人まで増えたという。

 「最初は、自分でも、ちょっと疑ってかかりました。このゴミからのリサイクル品は本当に使用できるのかってね。ミャンマー人にとって、廃棄物を再使用するという習慣もなければ、イメージもしにくいことだったのです。ですから、今でもマーケットが限られています。でも、やってみて、やはり社会のために役立つ仕事であるか、わかってきました。」
 現在、リサイクル品から製造している商品は60種類もあり、環境保護の展示会や協力者も増えてきた。こうしたことが広まっていけば、社会にとってはプラスになるという。
 Create Yangon 、Thant Myanmar 、Urban Asia などの公益団体もネットワークが持てるようになった。国家的な祝日や記念日などに招待される場合は、できるだけ展示するように頑張っている。

 すべての原材料は、処理の前に分別して、必ず清掃しているそうだ。材料調達も簡単ではない。原材料は、既存のゴミ収集の方に部分的には依拠している。廃棄物を収集するマーケットから買い取る場合も多く、コレクターが収集してきたゴミを種類分けして、購入もしているという。
 材料になるのはプラスチックフィルム(LDPE:ビニール袋、カバー)、パッケージング(チップ、インスタントコーヒー袋など)、傘の織物、チューブ(自転車、オートバイ、バス、トラック)、タイヤ(自転車、鉱山用ブルドーザー)、セメントや米の袋、古布、新聞などだ。

 「Reduce 、Reuse、Recycle」(再使用、再循環)という知識はまだ希薄なこの国では毎日のように環境問題に直面する。
 わが社「チュチュ」としては、ゴミの減少が主たる目的で、その次は個人のゴミ収集者を増やしていくことだ。廃棄物の山が小さくなればなるほど、貧しい人の収入につながるのではないかと、息子のTonyさんが語る。つまりゴミはリサイクルできる。ゴミを収集すれば、買ってくれる組織があるということが理解されてくれば町は綺麗になるから一石二鳥です。その意識を植え付けたいそうだ。
 「再循環の知識共有などの話を依頼されたときは、まず、招待してきた地域によって研修方法を考えます。そこでどんなゴミが一番問題なのか、どんなゴミを廃棄しているか、地域によって異なりますから、まずそれを調べます。」

 今まで、シャン州、カチン州、カヤー州、タニンダリー管区、チン州などへ行き、環境保護に大事な再循環の知識を教えたという。しかし同じような工場を作るにはまだ時間や土地が必要となる。
 最初に協力をしたイタリア会社から学んだ技術は、ゴミ分別→清掃→過熱→形成するというシステムだった。イタリアの会社は、このプロジェクト始めたときは技術と機械で支援してくれた。現在は国内外の市場に普及させているという。

 「このショールームを訪れる方は、やはり外国人が多いです。特にヨーロッパの方が断トッです。正直言うと、たとえゴミから製造したとはいえ、普通に使えるというイメージを定着させる必要があります。自分一人ひとりが世界の環境を守っているという自覚を持たせないといけません。そうでないとリサイクル品のマーケットはよくなりません。」
 現代、ヤンゴンだけでも毎日2000トン以上という廃棄物がでている。しかし、1トンの処理でも手間と時間がかかる。プラスチック製品の使用を禁止するわけにはいかないので、これに代わるものを探すか、減らしていくかを考えていかないと駄目ですね。」
 ミャンマー駐在NGOや孤児院、ボランティア施設、大学、国際教育機関などから訪問者がよく来ますが、環境研修組織の視察や見学が多く、ミャンマー政府としての直接的なサポートができにくいそうだ。
 「昔は、葉っぱや紙を使用して物を包装していたが、利便性からプラスチック包装が主流になりました。また、日常生活品などもプラスチックが60%を占めています。絶対使用しませんと断言できないので、どうやって減らしていくか、せめて、ゴミとして出た場合にはどうやって再利用するかなどを考えていかないといけません。これは世界的な問題であるし、放っておくと大きくなる問題です。ですから、政府の支援が必ず要ります。個人で続けてますが、政府からの指示や協力があれば、計画的な環境づくりができると思います。」

零細工場が点在するDalaで懸命に生きる人々

 Dalaは、小さな起業家が本当に多い。サイカーで回ってみると、ヤンゴンと状況はかなり異なる。「ZayYarHtun」というロウソク工場にも行ってみた。スタッフは5人だけ。日産が3万本。しかしここにも外国人のお客さんがよく見学に来るという。
 「以前は30軒以上ありましたが、今はうちだけです。将来性のある仕事ではないかもしれないからです。あと3年もすれば停電もほとんどなくなるし、大きなロウソクの需要は減ってしまうでしょう。ただ、タディンジュ(水祭り)のときはよく売れます。パゴダにお供えするので、乾季は注文が多ですね。

 つぎに春巻きの皮を作っている工場へ足を運んだ。日産3000枚ほどだというが、50枚入り1パックが1500ksだから1日の金額はたかが知れている。こちらも配送スタッフを入れて5人という小さな規模だ。ヤシの実の皮を使って飾り物を作っているのもユニークだ。

 昼食をはさんで次は孤児たちが学ぶ学校へ向かった。Ka Mar KaSik区にあり、900人以上の孤児たちを「A LaeKyaungPayiyattai」という僧院が教育しているという。
 この僧院は1994年に建立され、200人以上の僧侶に仏教文献を教える学校として開始された。それから、一般の教育を行う学校としての役割を持ち、小学生から高校受験まじかの学生も増えた。去年までは、中学校3年生までが900人と、中学校4年生から高校生まで300人ぐらい学んでいた。つまり毎年1200人を超える子供たちを支援しているのである。そして驚くのは支援者が僧侶一人だけということだ。

 「子供たちはビルマ族の他にパオ族、パラウン族、カレン族などです。シャン州で戦争あったときに親を失い、行く当てのない子供たちを連れてきました。宗教もいろいろです。仏教徒が多いですが、イスラム教徒、カトリック教徒もいます。私は、何を信じてもいいと思います。勉強だけ頑張ってくれれば、どの宗教でも受け入れます。」と僧侶は語る。
 7歳から僧侶になったこの僧侶は、エーヤーワディー管区、ザロン町出身だ。16年間マンダレーで修行して、ヤンゴンに来て24年間になる。現在59歳で、この活動を引き継ぐ弟子がまだいないため、危惧しているそうだ。僧院は約7エーカーと広く、敷地内に学校用施設が20軒あるが、1200人もの子供たちを支援していくことは、並大抵の努力でできることではない。
 「政府からの支援といえば、小学生まで白と緑の制服、教科書と教授カリキュラムですね。先生は20人いますが、一人3万6千ksという基本給を政府から支援いただいています。他、寄付の場合は食事一日分で50万ksかかると説明します。UNSCOの支援もありますが、半年に110万ksくらいです。ですから、これだけでは1200人という人数を養うにはちょっと限界がありますね。月末になると心配が増えますよ。この辺は貧しい人が多いから、何かあれば、ここに入ってきますので。」と、僧侶は顔を曇らせた。

 この僧院の目の前から向かい側はヤンゴン中心部のSin Oo Tanロードだ。「むこうから橋がかけられるのですよ。それで、工事の邪魔になるため、僧院の前にある仏像を壊すことになったのです。その代わりに何をすればいいですかって、政府から打診がありました。住民は怒るかもしれないが、この町のためには仕方がないかもしれない。私は応援します。仏像の場所を移動する代わりに、僧院内に学校を立ててくれるように要請しました。」
 僧籍の方とはいえ、こういう方々がいるからミャンマーはまだ救われる。孤児たちを分け隔てなく支援する姿勢には本当に頭が下がる。ヤンゴン駐在NGO、NPOなどの外国人は、ボランティア活動で教壇に立ってくれてはいるが、ヨーロッパ人が多いという。しかし日本、台湾からもテンポラリーだがボランティアの方が増えたという。
 普段ヤンゴンで暮らしていると、川向うのことは忘れがちだが、こうして訪れてみると、懸命に生きようとしている人々の姿が印象に残った。

 夕方4時にヤンゴンに向かった。空が暗くなりフェーリーを待つ人も多かった。

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