Sittaungシッタウン 先の大戦で約2万人の日本兵が戦死した悲劇の大河 日英の勝敗を分けた戦史に残る攻防が行われた場所へ

歴史的にみて、日本人にとっては忘れることのできない場所がBagoから西へ約40分のところにある。先の大戦のビルマ南西部における最後の激戦地となった「シッタウン川」である。ビルマ北部での無謀なインパール作戦の悲劇も胸を締め付けられる思いだが、ここでの攻防も悲惨を極め、戦死した将兵たちの無念さが伝わってくる。

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     歴史的にみて、日本人にとっては忘れることのできない場所がBagoから西へ約40分のところにある。先の大戦のビルマ南西部における最後の激戦地となった「シッタウン川」である。ビルマ北部での無謀なインパール作戦の悲劇も胸を締め付けられる思いだが、ここでの攻防も悲惨を極め、戦死した将兵たちの無念さが伝わってくる。
     1945年(昭和20年)7月から終戦にかけて、ビルマ戦線において日英両軍との間で行われた戦闘がいわゆる「シッタン作戦」といわれる攻防である。シッタン川西岸に唯一残っていた日本の第28軍は、英軍のラングーン侵攻により、退路を絶たれてペグー山系に追い詰められていた。
     ペグー山系はイラワジ川とシッタン川とに挟まれた標高500mの丘陵地帯で、竹林に覆われている。しかし、シッタン川西岸沿いのマンダレー街道(現在の国道1号線)を南下し、ラングーン侵攻を目指していた英軍の第4軍にしても、雨期で作戦行動が緩慢になっていたのが日本軍にとってせめてもの救いだった。  
     ところが日本の第28軍の食糧は7月末が限界となっていた。将兵は竹の小屋で雨をしのぎ、筍粥で飢えをしのいだが、食塩の欠乏症に苦しんだ。食塩の不足で筋力が低下し、ついには立っていることさえままならなくなった。
     そこで第28軍はシッタン川を越えてビルマ東部へ撤退しようとした。雨季は最盛期に入り、河川は氾濫し、平地は沼地に変わった。ようやく兵力の集結を終えた第28軍は敵中突破作戦を計画した。そして7月下旬、十数個の突破縦隊に分かれ、闇にまぎれてペグー山系を脱出し、一斉にシッタン川を目指した。広大な冠水地帯を横断し、増水したシッタン川を竹の筏で渡ったのである。
     将兵たちは筏に身を託して濁流へ身を投じた。体力の衰えていた者は濁流を乗り切ることができず、水勢に呑まれて流されていった。かろうじて渡河に成功した将兵は、シッタン川東岸を南下して行軍を続けた。
     しかし、結局シッタン川を突破できた者は3万4,000名のうち約4割の1万5,000名に過ぎなかった。約1万9千人の将兵がここで命を落とした。その後、第28軍司令部は第53師団司令部に到達し、南方軍と緬甸方面軍から作戦成功?の祝電と終戦の詔書公布を知らされた。1945年8月15日の終戦の日だった。
     歴史にタラレバは禁物だが、退却の悲劇が起こった約2週間後に終戦になったことを考えれば、あと1か月早く退却を決断していれば、これほどの犠牲者が出たかどうか。インパ―ルと同様に、当時の面子ばかり重んじた大本営と、保身ばかりに走った無能な指揮官が尊い命を奪ったといっても過言ではない。

     そのシッタウン村に向かった。対岸の「KyaikKa Lon Pun Pagoda」へ通じる大河に,修復された旧シッタウン橋がかかっていた。中央に鉄道が走り、両側に車と歩行者の専用道路が作られていた。先の大戦では戦火を逃れて対岸に渡ろうとして命を落とした約2万の日本人の英霊が河や周辺のうっそうとした林の中に眠っている。気のせいか、この橋のたもとまで来たとき、ひんやりとした霊気のようなものを感じた。
     昨年、弊紙ミャンマー人取材班が、すでにこのシッタウン橋を訪れていた。そのときの記述がある。「村に入り、まず『戦没者記念墓地』を目指すことにした。シッタウン橋の裏を右側に曲がると、シッタウン川が目の前にに広がるAye Thar Yar地区に到着。川辺には住宅が並んでいるが、昔は4軒しかなかったと聞いた。

     近隣の人に、『ジャパニーズ・メモリアルに行きたい』と告げたら、40年前からここに住んでいるという老人が傘を持って来てくれ、道案内をしてくれた。5分ぐらい歩くと、どうやら墓が埋まっているという場所に到着したようだった。うっそうとした雑草に覆われ、これでは初めての人にはわからない。やはり地元の方に案内して頂いて正解だった。
     『ここには以前、個別にお墓があったのですよ。でも今は住民と企業の間で土地の使用問題でトラブルになって荒野になってしまいました』。村人はそういった。なんでも企業はここでゴムを栽培したかったようで、その計画を立てた。しかし『ここは戦没者の霊が眠るから』と、地元民の反対にあったという。墓地とその歴史を壊す状況を誰も好まなかったのだ。『それで、その計画はストップしたんだよ』と老人は説明してくれた。  
     なるほどと思った。『激闘の戦い』(A Furious Battle) と呼ばれるシッタウン川での戦闘は、日本軍の勝敗の明暗を決定づけたともいわれている。それだけに多くの犠牲者を出した。昔から住む村人たちは、その悲惨な歴史を今でも忘れていない。その場所にゴム栽培は考えられなかったのかもしれない。
     私たちは新しいシッタウン橋の建設計画でここに移転させられました。移住当時はこの川辺付近にはうちを含め4軒しか家がなかったのです。今は住宅地になりましたが、徐々に人が集まり、開発中に戦死した将兵たちの墓が見つかるようになってきました。」道案内をしてくれた付近に住む村人は、取材班に貴重な話をしてくれた。  
     墓の周りでは鉄棒、歯、レンガなどの遺品も発見されたという。しかし保護する団体も組織もまだできていない時代だったので、すぐに紛失状態になったという。村人は墓を訪ねる外国人に何回か道案内をしたことがあるといった。
     中でも皮肉にも英国人が多かったという。もちろん、戦闘を交えた両国の人間たちにとって、ここは悲しく、重ぐるしくなる場所であった。過去の真実に目を向け、歴史を振り返り、2度とこうした悲劇を繰り返してほしくないという気持ちで一杯になった。
     1945年8月に終戦を迎えたが、「Japanese Conquest of Burma」という歴史本では、その約3年前1942年2月に、このシッタウン橋(当時シッタン橋)が一部破壊されたことを下記のように記述している。
     「シッタン橋は数百ヤードにわたる鉄道付きの橋で、ビルマの南海岸に位置するシッタン川を横断していたため、その名前が付けられている。第17インド軍師団は、ビリン川の戦いで、すでに劣勢になり後退。シッタンを離れる許可を得た。闇に乗じて西に30マイル(50km)撤退しした。一時は日本軍が優勢だったのだ。日本の第214、第215連隊は進軍し、シッタンでの英軍撃退を目指した。戦いが終わった直後に戦闘を指揮したウィリアム・スリム(フィールド・マーシャル・ウィリアム・スリム)大佐は、シッタン橋を『戦争の決定的な戦い』と名付けた。英:("the decisive battle of the first campaign.")」

     2月22日の早朝に、日本軍がこれ以上攻勢に転じたらスミス大佐は、1時間以内に橋を破壊するよう将兵に命じた。スミスの選択は、橋を破壊し、自分の部隊の半数以上援護する計画だったという。そして2月22日の早朝5:30に、実際に橋が壊されたことが書かれている。
     シッタウン川は420㌔(260 mi)と長い。ちなみに1957年に再建されたこの古い鉄道併用橋は交通量に耐えられなくなり、2008年7月12日に端から北東2㌔のところに新しい「シッタウン橋」が建設された。 
     シッタウン川の景色を眺めるには古いシッタウン橋の対岸にある「Mya Thein Tan Pago
    da」がいい。このお寺のへさきからは、橋の全景が見渡せる。現在は静かに流れる大河も、雨期の当時はどれほど荒れ狂い、将兵の命を奪っていったのか。それを思うと手を合わせずにはいられなかった。

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