第10回 ミャンマー人の肖像 ボ・ボ・テさん 日本で培った15年の経験を生かして農業ビジネスへ 日本の鶏糞肥料でミャンマーの土壌改良に邁進する

生まれはミャンマー西部のエャワディー管区パンタノ。我々日本人にはなじみのない地名だが、1960年代に米ソのキューバ危機回避に奔走した当時のビルマ出身の国連事務総長ウ・タント氏の生まれ故郷としてミャンマー人にはよく知られている。  今回紹介するボボテさんにとっても、彼は故郷の英雄で誇りでもあった。そしてボボテさんは、世界を相手に堂々とわたり合うウ・タント氏のように、子供のころから自分も海外へ出て活躍したいという夢をもっていた。

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U Bo Bo Htat ボ・ボ・テさん KI Company Limited - Managing Director GOWELL MYANMAR Co.Ltd. - Managing Director

 生まれはミャンマー西部のエャワディー管区パンタノ。我々日本人にはなじみのない地名だが、1960年代に米ソのキューバ危機回避に奔走した当時のビルマ出身の国連事務総長ウ・タント氏の生まれ故郷としてミャンマー人にはよく知られている。
 今回紹介するボボテさんにとっても、彼は故郷の英雄で誇りでもあった。そしてボボテさんは、世界を相手に堂々とわたり合うウ・タント氏のように、子供のころから自分も海外へ出て活躍したいという夢をもっていた。
 「私の場合は建築家ですね。建築物が好きでしたから、まず技術を習得したいと考えていました。その目的を達成するために、10代のころから日本へ行くことを真剣に考えていました。」
 そして18歳の時にその夢が現実化した。多くの人々の協力や支援を受け、まず、語学留学生として日本の土を踏んだ。2000年、ちょうど21世紀の幕開けの記念すべき年だった。
 「日本は自分が想像していた以上に近代化された国でした。初めのころは何もかも驚きの連続でした。それで最初は日本語を覚えることに全精力を使いましたね。」
 生来の負けん気の強さとミャンマーの若者に珍しく、常に上を目指したいというたぐいまれな向上心があった。すると、あるきっかけで、日本の中堅ゼネコンのK建設への仕事が舞い込んできた。日本滞在3年目のことだった。
 「念願の建設関係の仕事でしたから嬉しかったです。だから建築技術を覚えたい一心で一生懸命働きました。日本人の何倍も努力しました。ここには3年間ぐらいいましたが、最後には現場監督を任せられるようになりましたよ。」
 ボボテさんには日本の水が合っていた。見るもの聞くもの、すべて吸収していった。元来が素直な性格で、次第に友人、知人の輪も広がっていった。
 「ある時、有名な高級焼肉チェーンの『トラジ』の幹部の方と知り合い、この店の新規開店の際に誘われました。六本木ヒルズにあるお店でした。」
 ここでもボボテさんは卒先して働いた。飲み込みも早かった。肉の調理法もすぐにマスターした。意欲の旺盛な人間の吸収力は人とは違っていた。幹部も周囲も、そんな彼の仕事ぶりを見ていた。そして間もなく料理長という大役を任されたのだ。

  「ですが、調理だけをやっていればいいという気持ちはありませんでした。商売ですから当然利益を上げなければならない。喜びよりもそうした責任感の方が強かったですね。」
 店は繁盛した。売上げも好調だった。すると幹部はほかの系列店のマネジメントまでボボテさんに依頼してくるようになった。すごい信頼を築いていたのだ。
 「そのころ知人が焼肉店を始めたいというので、私に相談が来ました。すべて私に任せてくれるというので、この話を受けました。そして東京の江東区に『Goo IT』という店をオープンさせました。日本の飲食業界は厳しいですから、ここでもサービス、メニューの質などに細心の注意を払いました。スタッフも大事にしました。地道に努力していく、日本人のビジネスのコツがやっとわかってきたような気がしました。」
 この店も軌道に乗せた。結婚もした。子供もできたが、親分肌の性格だったため、店が引けると従業員や知人を引き連れて散財を繰り返した。そうしたことが重なって結婚生活は破局した。財産というべきものも残せなかった。
 そのころ、ミャンマーは世界が注目する民主国家へと舵を切り始めていた。母国の変貌には驚きを隠せなかったが、素直に嬉しかった。
 「日本滞在15年になろうかという2014年頃に、今度は日本で学んだ技術、知識、情報を生かしてミャンマーで仕事ができないか、と思うようになりました。お金儲けのためだけではない。何か母国に恩返しできないかと考えたんです。それで帰国を決意しました。」
 しかし帰るにしても資金が心もとない。ネットワークが広がれば広がるほど、交際費などで散財が増え、気が付けばまとまった資金がなかった。

「すると長年お付き合いさせていただいていたミャンマーの友人が、何も言わずにポンと、20万円を手渡してくれたんです。感激しました。」
 幸運は続いた。東京飯田橋に本社のあるGOWELLというASEAN3か国で通訳と翻訳を専門に行っている会社からも話が来た。ミャンマーに4か国目の拠点をつくるので、そこの責任者になってほしいという願ってもない依頼だった。ボボテさんの人柄を見込んでのオファーだった。
 こうして彼は2014年に帰国し、「GOWELL MYANMAR Co,. Ltd.」を設立し、代表取締役に就任し、ミャンマーでのビジネスをスタートさせた。
 「15年もミャンマーを離れていると、母国もずいぶんと変わりました。特にヤンゴンの変貌ぶりには驚きました。当然希望も湧いてきました。他にも何かビジネスができるのではないかと、自信めいたものも感じ始めました。その一つが肥料だったのです。」
 ミャンマーは農業国である。しかし最近は生産を上げるために農薬や化学肥料を過多に使うケースが増え、土壌が荒れ、質にも影響が出始めていた。そこでボボテさんは日本の鶏糞でミャンマーの土壌改良ができないか、模索し始めた。
 「2017年に会社を立ち上げ、日本の鶏糞肥料による土壌改良の仕事を始めました。しかしこれが考えていた以上に大変な仕事でした。何しろまず農家の人たちに効能を理解してもらわないといけない。それまでいろいろな話が来ているから、信用してもらうには知恵と努力が必要でした。」
 そこでボボテさんは国内の農村地帯に出向き、サンプル品を配り、実際に試してテストをした。結果が出てくるまでに2週間くらいかかるが、それでも彼は何回も現地に足を運び、辛抱強くデモを繰り返した。
 「違いがわかるように、農地の半分だけテストするんです。するとその変化が具体的に理解できます。土壌が改良されれば、質のいい作物が生産できます。そうやって少しづつデモを行っています。」
 その成果も出てきた。1㎏で7500Ks(約650円)という価格も適正だった。販売方法も考えた。当初の購入資金がない方には、生産した作物の売却代金の中から支払ってもらう方法も導入した。1エーカーあたり4㎏ぐらいで十分でだから効率もいい。
 「日本の鶏糞肥料は与えている餌が違うので、ほかの国々のものとは比べものにならないくらい質が高い。もちろん輸入価格もそれなりにします。今、日本の3社から仕入れています。2020年には40フィートコンテナで150台くらい仕入れる予定です。」
 ミャンマーの農地の1.5%の需要が出てくれば、コンテナで1500台は必要になるという。昨年、故郷のエャワディー政府が、政府所有の農地の10%に鶏糞肥料を使用してくれることを約束してくれた。
 持ち前の粘り強さと営業力でビジネスは順調に業績を伸ばしている。ミャンマー政府も重要視する農業だけに、社会貢献的な意味も含むボボテさんの仕事は、将来性も十分と言えるだろう。
 今後は事業拡大にともない、当然資金も必要になる。事業の趣旨をよく理解してくれる方からの投資なら大歓迎だという。日本の鶏糞肥料会社の開拓も続けていかなければならない。やることは山ほどあるが、自分のビジネスがこの国のためになると思えば、ガ然やる気も湧いてくるという。

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