◎顔|Face Phyu Phyu Kyaw Thein ピューピュー チョーティン ミャンマー歌手、医師

ミャンマー国民の魂を揺さぶる旋律 アセアンの歌姫が綴る人生観と歌への熱き想い

目次

1920年代のパリが輩出した伝説的歌手E.ピアフ(1915~63)、アメリカジャズ界が生んだ”LadyElla”ことE.ジェラルド(1917~96)や国民的歌手美空ひばり (1937~89)などの偉大なるエンターティナーたちと比べても、個性は異なるが、この人の歌唱力と情感は決して引けをとらない。ドクターの肩書きを持ち、ミャンマー音楽協会の事務局長をも兼ね、今やこの国を代表する歌手と なったPhyu Phyu Kyaw Theinとはいかなるアーティストなのかーーーー。彼女の素顔と心情に迫る機会を得た。

Aロドリゲスを彷彿させる歌唱力 偶然耳にした旋律に釘付けに

これはミャンマーの「ファド」ではないかーーー。
2年ほど前、ラジオから流れてきた彼女の歌声を初めて耳にしたとき、しばしその旋律に釘付けとなった。そしてふと、40年前にポルトガルで遭遇したアマリア・ロドリゲス(1920~99)のハートに突き刺さるようなフレーズを思い浮かべた。
 曲名はミャンマー語で「ランクェ」(別離)と後にわかったが、心の底から絞り上げるようなその歌唱力は、かの地の民謡を叙情的に歌い上げるアマリアとオーバーラップした。むろん歌声の主がミャンマーを代表する女性歌手であると知るのに時間はかからなかった。以来、彼女のCDを収集し、その動向に注意を払うようになった。
 そして今回、偶然にも、とある場所で彼女と出会い、当方の心情を正直に吐露したら、意外にも実にあっさりと取材を承諾してくれた。

CDコピー版が60万枚も売れる 音楽環境より国力の整備をまず優先に

11月の某日、ヤンゴンの西にある彼女の自宅に招かれた。数々のヒット曲を出し、巷には彼女のCDやDVDが溢れているだけに、訪問前までは相当な大邸宅にお住まいではないかと想像していたが、意外にも、ヤンゴンの中流以上が暮らすコンドミニアムタイプの2LDKに居を構えていた。
「お陰様でヒット曲にも恵まれ、私のCDを聞いてくださる方は沢山いますが、1枚2500~3000Ksの正式に売られているCDは1万枚ぐらいしか売れてません。だって、そのコピー版が200Ksぐらいで買えますからね。数としては60万枚くらいになるのでしょうか」冒頭から、ピユーピユーさんはいきなり驚くべき数字を茶目ッ気たっぷりに告白した。悲惨さは微塵もない。「いいのよ、皆さんが喜んでくれたら」とでも言いたげ表情で、あっけらかんと言い放つ。少々ショックを受けていた私には、その明るさがせめてもの救いだった。「ミャンマーは発展途上国です。だからまず優先されるべきは政治、経済なんです。外交も、社会の整備もそうです。もちろんアメリカや日本では著作権で保護されていることは知ってます。でも、この国のエンターティメントビジネスのレベルを向上させることは、そうしたことをきちんと行ってからでいいと思います。物事には順序がありますからね」。下司な想定だが、もし、この国に西欧並みの音楽環境が整っていたとしたら、今頃彼女は億万長者になっていたに違いない。しかし、ピューピューさんのこの発言は、ミャンマー音楽協会事務局長という公的な肩書きを背負っているからでは決してない。間違いなく本心からだろう。そうでなければ、あれだけ情感を込めて、人々に訴求し、感動を呼ぶ歌を世に出せるだろうか。

高校生全国検定で17位に入る 人気バンドとの出会い

ピューピユーさんの音楽的才能は、厳格なクリスチャンである両親に連れられて教会の日曜礼拝に行くようになって目覚めたといっても過言ではない。3歳くらいのころだった。当然ミサには賛美歌などの歌唱が付き物である。先天的な才能を磨くには絶好の場であったのだ。「両親は私を医者にしたかったようです。だから歌手を目指すといっても余りいい顔をしなかったように記憶しています。当然でしょうね」
現在でも美しいクィーンズイングリッシュを話すお母さんの影響で、彼女は勉学にも励んだ。その結果、高校生の時、ミャンマーの全国能力試験で、なんと17位に入ったという。推定100万人前後の受験生の中のベスト20入りである。俗にいう神童かもしれない。
「それでも音楽にはのめり込みましたよ。とくに当時ミャンマーで人気絶頂のアイアンクロスというバンドに憧れていました。それで初めてのソロアルバムを出す機会に恵まれたとき、その演奏や協力をこのバンドに依頼したのです」
 これが転機だった。アイアンクロスのメンバーが、彼女の才能に気づくのにそれほど時間はいらなかった。彼らのステージに招待され、そののちこのバンドの専属女性歌手となって、4枚のアルバムを出したが、いずれもコピー版を含めればミリオンセラーを記録した。そして音楽番組にひっ張りだことなり、ピユーピユー・チョーテインの名は一躍ミャンマー国内はもちろん、タイやシンガポールなどでも脚光を浴びるようになった。

日本で2年前に同胞の前で熱唱 人民広場で米人気歌手と競演

彼女は毎年海外コンサートを多数こなしている。2年前にシンガポールのペニンシュラ広場で行ったステージも大盛況だった。そしてその1か月後の5月、日本へも行った。当時はニュースにもならなかったが、在日の同胞の前で熱唱した。
「“シブヤ”という駅の前にあった犬の銅像とその話を聞いて感動しました。日本は綺麗で清潔でとても美しい国という印象を持ちました。富士山、京都、奈良にも行きました。そのなかでも金閣寺に惹かれましたね。チャンスがあれば、また行きたいと思います」
若者の街澁谷がいたく気に入り、浜崎あゆみのCDを購入したが、ミャンマー換算で3万チャットもしたのには仰天したという。民主化が進行中のミャンマーで、ピューピューさんの周辺にも追い風が吹く。この年の12月、政府はシェダゴン・パコダ前の人民広場での野外コンサートを初めて許可した。アメリカの人気ロック歌手ジェイソン・ムラードとともに、ミャンマーの代表としてステ-ジに立った。広場は5万人の観衆で埋め尽くされた。
「ムラードさんと競演したのよ」インタビュー後に母親が嬉しそうに私にいった。

歌手活動の最中に医師免許取得 姉妹揃って医師は両親の夢

現在、その母と2人暮らしだが、彼女の凄さは歌手活動の最中の2006年にヤンゴン第一医科大学に入学し、卒業したことである。しかも、3年間の研修医を経て、医師免許を取得したことだ。彼女はこともなげに言うが、この国で医師になることは、並大抵の努力ではない。ちなみに、ピューピューさんのマネージメント、衣装などを担当する実姉も医師だというから驚きである。
「両親の希望をかなえてあげたかったのよ。大変だったけど、今では楽しい思い出」と語る彼女のかたわらで、母親はニコニコと微笑んでいた。素晴らしいファミリーである。
 現在、物理的に医師活動はできないが、今後はもう少し広い社会貢献ができるようになれば、役立てることも視野に入れているという。

ミャンマーを支援する日本へ感謝 ミャンマー国民から絶大な支持

冒頭に記した「ファド」とアマリアのことを尋ねてみた。むろん、知らないし、聞いたこともないという。美空ひばりのことも説明した。これも然りであった。
 彼女がカバーしているのはセリーヌ・デオンなどのアメリカンポップスであり、年代的には当然かも知れぬが、できれば是非聞いてみたいとCDを熱望され、これは後日贈呈し、感想を伺うことにした。
「過去の戦争のことは私たちの世代の責任ではありません。日本に対しては、私たちの国ミャンマーを助けてくれているという印象をもっています。そしてとても嬉しく思います」と日本と日本人へのメツセージをいただいたが、社交辞令にしても悪い気はしない。
夢は「世界で通用する歌手になること」と目を輝かせたが、素直に、まず日本で本格的な歌手デビューをさせてあげたいと、このとき思った。
 卒直に申し上げるが、日本のアイドルや人気先行の歌手たちとは、比較の対象にすること自体失礼である。生い立ち、バックグラウンド、人生観そして壮絶な歴史を歩んできたミャンマー国民のハートを掴んで離さないその歌唱力は、アセアン地域だけにとどめておくのは実に惜しい気がしてならない。

<Phyu Phyu Kyaw Thein 略歴>
本名 Phyu Phyu Thein
1981年4月22日 ヤンゴン市生まれ。
2003年デビュー。
アルバム 「もう全然関係ない」「恋人の呪い」
「Memories of A Diva」「ある女の失恋」
受賞歴  「ベストセイリングアワード」
(2007年 City FM ラジオ)
     「国民に一番愛されたアワード」
(2011年Shwe FMラジオ)
     「Album of the year」
(2013年 Shwe FMラジオ)
社会活動 Champion for Children(UNICEF)
Myanmar Music Associations事務局長
     MANA(ミャンマー麻薬対策協会)人権大使
     MTV Exit(ミャンマー人身売買対策協会)大使

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