◎今月の視点 日緬60周年、恩義を忘れずに「自戒」の念を肝に銘じて前進へ

「新年、明けましておめでとうございます」 旧年中は本紙のご愛読並びに取材、 広告を含めて大変お世話になりました。本年も、 スタッフ一同より一層の精進を重ねて参ります。 何卒、ごひいきのほどよろしくお願い申し上げます。

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東京首長の醜態に失望の念 奔走する大統領を見習うべし

ここ3年ばかりヤンゴン暮らしが続き、師走の慌しさや日本独特の新春の静寂感とは無縁である。4月中旬に新年を迎えるミャンマーでは、1月4日の独立記念日を除けば、普段と変わらぬ日常だ。商店も銀行もレストランも平常通りの営業であり、帰国中の駐在員がかなりいるため、邦人の方々の影がやや薄い。
そうした中で、日本から大東京の首長をめぐる聞きたくもない醜態が、連日、もれ伝わってきた。アジアの手本になるべきはずの先進国の首長さんが、この体たらくでは、どうしてこの国や途上国のことを批判したり、偉そうに言えるのか。しかも、許しがたいのは、彼は在野の時に権力批判や悪事を追及する急先鋒のお方だと思わせていたことだ。権力は両刃の剣とはいうが、そんなに魅惑的で誘惑に満ちたものなのか。落胆、失望は大きい。
折りしも、同時期にアセアン首脳会議で、テイン・セイン大統領が日本に滞在中だった。新たにミャンマーへ600億円強の円借款を約束し、ビザ発給条件の相互緩和や経済協力などについての意義ある会談が安倍総理となされたようだが、東京の首長さんは、ご自分の5分の1程度の俸給で東奔西走する大統領の姿を少しは見習うべきだろう。

日本サッカーの礎を築いたビルマ人 昔は恩義、恩恵を受けた

見習うといえば、かってのビルマから私たちは様々な恩義や誠意ある処遇を受けたことを忘れるわけにはいかない。昨年ミャンマーで44年ぶりに開催された「Sea Games」に関連して、12月11日付けの信濃毎日新聞に、こんな興味深い記事が載った。
「伝説のサッカー指導者がいた。ビルマ、いまのミャンマーから日本に留学していたチョウ・ディンという学生だ。1920年代、東京高等工業学校(現在の東工大)で学びながら、基本技術や戦法を指導した●コーチをした早稲田高等学院が全国大会を2連覇し一躍、名が知られた。23年の関東大震災で東京工業学校が倒壊して授業再開のめどが立たなくなり、時間に余裕ができたため全国を巡回して中学生らを指導。その中から後の名選手が何人も育っていった●英国支配下のビルマの競技水準が高く、日本は基本すらおぼつかない時代。チョウ・ディンさんは技術に加えショートパス戦法を伝授。これが後の日本サッカー発展の基盤になった。戦後55年、日本代表はビルマとの試合で善戦、弾みをつけて翌年にメルボルン五輪出場を決めた。―――――――以下、略」今でこそ、なでしこジャパンが女子W杯で優勝し、男子もそこそこ健闘している日本サッカーだが、その礎の一端を築いたのがビルマ人だったとは、恥ずかしながら、当方も存知あげなかった。

戦後の食糧難に米を援助された 利権、権力にしがみつく愚かさ

今年は日緬国交樹立60周年を迎える節目の年である。先の大戦で壊滅的な打撃を受け食糧難にあえいでいたわが国に、積極的に米を援助してくれたのは、当時アジアでGDP最上位を誇っていたビルマだった。様々な経緯や背景はあるが、1954年に戦後の賠償の放棄に最初に応じてくれたのもこの国で、同年に平和条約が締結された。未だに政治的プロパガンダに利用し、事あるごとに難癖をつける隣国たちとはえらい違いなのだ。
先の大戦前、アウンサンら30人のビルマ独立義勇軍と当時の鈴木敬司陸軍大佐が率いる「南機関」が協力して、開戦後に英国軍を一掃した話はよく知られている。しかし完全独立ではなく、日本軍が傀儡(かいらい)政権を作ったためアウンサンらが反旗をひるがえした後日談も有名だが、日本の敗戦後、戦犯に問われてビルマに移送された鈴木大佐に対して、当時のビルマ政府が大佐を釈放したという話までは余り知られていない。少なくとも独立を手助けしてくれた鈴木の恩義への返礼で、友情は途切れていない証だと言われた。
その後は、両国にとって不幸で歯がゆい日々が続いたが、日緬60周年を迎えた今年は、昨年を上回る規模の経済プロジェクトと人的交流が行われるだろうと予測される。そうなると、どこかの首長様のように、利権や権力の甘い蜜を吸おうという輩も多くなりそうだ。
A スーチーさんは著書「希望の星」の中で、敬愛するミャンマーのウー・パンデッタ大僧正の言葉を記している。
「人間、努力し過ぎることはあるが、自戒し過ぎることは決してない」 次ページで特集した「街を歩く」の中の独立公園内の記念碑に、ビルマ初代首相ウーヌー氏も、同様の趣旨の戒めを刻んでいる。

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