◎第6回 テリー先生ヤンゴン滞在記 泰緬鉄道

私がミャンマーに来るきっかけとなったのは、バンコクのチャオプラヤ河のほとりのホテルに泊まっていた朝に、河の流れが海から山に向かっている光景を見たことだ。

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    私がミャンマーに来るきっかけとなったのは、バンコクのチャオプラヤ河のほとりのホテルに泊まっていた朝に、河の流れが海から山に向かっている光景を見たことだ。テラスにおりていき、高校生3人組に声をかけ、河の流れを質問した。その中の一人の女の子から「私の地元で日本の戦争記念祭りが開かれている、チケットをあげる」と一枚のチケットをもらった。このチケットが私の人生に大きな変化をもたらした。ちょっとした事が人生を変える、この場所はカンチャナブリという町だった。ちなみに、戦争記念祭りは12月8日前後に一週間、毎年開かれている。
    1941年12月8日は日本がハワイの真珠湾攻撃をして、第二次世界大戦が始まった日だ、当時は知らなかった。
    「戦場にかける橋」という映画があったので記憶に残っている人もいるかと思うが、この橋がある場所がカンチャナブリだ。

    カンチャナブリ行きのバスは、バンコックのBTS電車のビクトリアモニュメント駅から小型のバスで200B(約600円)で20分おきに出ている。所要時間は約二時間、途中の交通渋滞による。トイレ休憩はバスの燃料給油の為途中にガソリンスタンドに立ち寄るので心配ない。
    「戦場にかける橋」を見るために多くの旅行者が来る。

    日本人観光客に出会うことはまれだ。橋の近くに、1943年(昭和19年2月)に建立された慰霊碑がある。戦争中に作られたことに驚いた。「泰緬鉄道/吉川利治著」によると「泰緬鉄道完成直前に着任した石田英熊司令官は建設工事現場の視察途中、捕虜や労務者の墓標が林立している墓場やニーケの捕虜病院を見て、死者の霊を慰める必要を痛感したという。タイではメークロン川鉄橋の河畔に、ビルマ側にはパゴダをタンビュザヤに、1944年1月(昭和20年)に建立した」と書かれている。戦争博物館が慰霊碑の隣にタイ人の実業家の資金で作られている。資金が乏しいのか、展示品はゴミをかぶり、あまり手入れをしていない様子だ。戦時中に日本軍の持って来た自転車や自動車がある。
    驚いたことに歯の治療の機械もある、日本のモリタという会社の機械だ。

    泰緬鉄道は日本と英国がビルマで戦う為の物資を陸路で送るために415kmの距離、タイ国バンポンからビルマのタンビュザヤまで、1年半の短期間に過酷な条件のなかで完成させた。ここでは3000トンに及ぶ物資を輸送していた。

    平和祈念公園がカンチャナブリから車で30分の距離にあるラットヤの川沿いにある。タイ国で唯一の神社である、桑井川神社では毎年6月に例大祭が行われている。日本人の浅川さんが管理している。タイ国のカンチャナブリからミャンマーまでの国境にあるスリーパゴダまではロットウというバスが走っている。所要時間は約二時間。ミャンマー側の町はパヤトンズという。地元の人たちが国境をわたる小道がある。2013年初頭に泰緬鉄道再建に関する記事を見つけた。「ミャンマー政府のアウン・ミン大統領府相によると、泰緬鉄道のビルマ側起点だったタンビュザヤから、国境のスリーパゴダまでの約100キロ・メートルを建設する。」タイ側の泰緬鉄道は Death Railway という名前で世界中から多くの観光客が来て地元の経済に貢献している。もし、ミャンマー側で泰緬鉄道が再建されれば、ミャンマー経済にも大きな貢献ができると思う。
    ミャンマー側の泰緬鉄道は103kmタンビュザヤからパヤトンズ(スリーパゴダ)までの山の中に線路が引かれた。日本軍が発見した温泉もあるという。まだ訪問するチャンスが無いが、是非行きたい場所である。

    <テリー先生>
    本名宮川照男。1949年、平塚市生まれ。早大理工学部卒業後、山武ハネウエル(株)入社。
    1988~1992年、同社米国駐在所長を経て独立。野菜工場設備会社(有)アイエスエス設立。スプラウト栽培を日本に紹介、普及させる。その後、東海大学湘南キャンパス、チャレンジセンター特任職員として「ものつくり」「環境キャラバン隊」などを指導。2012年退官し、2013年5月より、ヤンゴンにて農業視察、調査を開始。
    Yezin Agricultural 大学の学長らと、ミャンマー農業支援について討議を重ね、現在、同大学とヤンゴンのElephant Seed 会社と種子生産についての技術提携を計画中。小型飛行機操縦士免許取得。

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