◎第13回 テリー先生ヤンゴン滞在記

ガパリ海岸で森隊長の思い出を聞く

目次

    ミャンマーで最も美しいといわれているガパリ海岸に行かなければ、この滞在記も続けることはできない、ガパリとは、イタリアのナポリから名前がつけられたらしい。若い頃、ローマーから電車で、ナポリ、シシリー島まで行ったことがある。地中海の海の色は覚えている。ガパリ海岸の海の色はどうなのか?とても興味があった。飛行機でヤンゴンから飛べば、45分でいけるが、それでは記事にならない、バスで行くことにした。出発の前日にアウンミンガラバスターミナルに切符を買いに行った。パスポートとビザーのコピーが必要と言われた。出発は午後の2:50、バス料金は12000Ks
    (1200円)だ。トイレに行って、ピーナツを買い、バスに乗り込む, サンドウェーThandweがバスの終点。

    バスはエヤワディ河をわたる、中洲に集落ができている。魚つりは出来るし、乾季なので洪水はない。泥棒もいないから快適な生活なのだろう。ヤカイン州に入ると峠越えになる。検問所がある。すでに夜の8時を回っている。車掌が乗客の身分証明書、私のパスポートコピーを持って手続きにいく。パスポートそのものは渡さなくて良いから安心できる。パスポートは絶対に誰にも渡さないのが、旅の秘訣です。夜の9時になっても、冷房をきかし、テレビの音量が大きい、これはバス会社のサービスなので誰も文句を言う人はいない。ミャンマーのバス旅には、ヘッドホーンと長袖の防寒対策が必要だと心に銘じた。

    サンドウエーのバスターミナルに着いたのが朝5時だ、約14時間のバス旅であった。ここから、ガパリ海岸までは約20分、まだ、朝が早いので近くの市場に行った。豊潤な海があるようだ。カツオやエイなど、美味しそうな魚が沢山いる。ガパリ海岸への期待が膨らむ。バスターミナルに戻り、バイク荷台車に乗り込む、料金は1000ks(100円)だ。
    ガパリ海岸についた。まだ朝早い、運転手が「降りろ」というまで乗ることにする。

    桟橋についた。ここが終点のようだ。ここから沖にある島まで「船で行かないか」と誘われるが、今日泊まる場所を探さなければならない。運転手に安いホテルへ連れて行くように頼む。ミャンマー語が喋れ初めのホテルは100ドルもした、相場のようだが、安いホテル(セージレ)で、他をあたると、一泊40ドルのホテルがあった。オーシャンフロントの部屋である。テラスもあり満足だ、荷物を部屋に置き、海に入りに行く。ない私だが、高い(セポーレ)安い(セージレ)の単語で意思の疎通を行うのである。

    海は綺麗だ。地中海のナポリの海は無機質の透明度であったが、ここは、有機質の濁りがある、つまり、プランクトンが沢山いるのだろう。贅沢はいえない、江ノ島の海より格段に綺麗だ。 浜辺を歩く、この海岸はオートバイの走行が禁止されている、砂浜に藁(わら)が敷き詰めている、どうも魚を干すために使うようだ。子供たちが、椰子の木に登っている。平穏な海岸である。お腹がすいたのでレストランに入る。ここは、ホテル街のはずれで、こじんまりした家族経営の食堂だ。日本人だと分かり、オーナーが話しかけて来た。父親が昔、日本軍の施設で働いていたという。
    85歳の老人がはっきりした日本語で森隊長、小林曹長というではないか!イギリス人が保養地としてつけた名前、ガパリ海岸に日本軍が駐留して、地元の人に日本語を教えたというのである。地元に住むイギリス人が一人でビールを飲んでいた。日本人とイギリス人、ビルマ人の対話に発展した夜であった。
     友好的な笑顔と懐かしさを示す目を見て、日本人の先人の足跡を見た気がした旅であった。
     戦後70年、この老人のように、日本語を学び、その後一度も日本語を話していない人も、まだ、多くいるのではないか。老人ホームを訪問し、昔の思い出話を聞くことが出来ればいいなと次の旅を考えた。

    <テリー先生>
    本名宮川照男。1949年、平塚市生まれ。早大理工学部卒業後、山武ハネウエル(株)入社。
    1988~1992年、同社米国駐在所長を経て独立。野菜工場設備会社(有)アイエスエス設立。スプラウト栽培を日本に紹介、普及させる。その後、東海大学湘南キャンパス、チャレンジセンター特任職員として「ものつくり」「環境キャラバン隊」などを指導。2012年退官し、2013年5月より、ヤンゴンにて農業視察、調査を開始。
    Yezin Agricultural 大学の学長らと、ミャンマー農業支援について討議を重ね、現在、同大学とヤンゴンのElephant Seed 会社と種子生産についての技術提携を計画中。小型飛行機操縦士免許取得。

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