◎今月の視点 「汽車に乗って、みゃんまーのような“田舎”に行こう」

想定内とはいえ、4月は水祭りを挟んで連日40度の日が続き、やはり暑さは半端ではなかった。

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この時期に思い浮かべる丸山薫の詩 水祭りの情景がオーバーラップ

想定内とはいえ、4月は水祭りを挟んで連日40度の日が続き、やはり暑さは半端ではなかった。下旬に台風のような風雨がきて、やや清涼感を感じたが、5月になっても温度計が極端に下がるわけではない。それどころか、これから迎える雨季には湿気という大敵が待ち受けている。うっかり衣類をしまいっぱなしにすると、カビにやられて地団駄を踏むのでご注意を。
 ところで、乾季から雨季に変わるこのシーズンになると、なぜか毎年思い浮かべる詩がある。戦前に一世を風靡した詩人の故丸山薫さんのフレーズだ。
汽車にのって
あいるらんどのような田舎に行こう。
ひとびとが祭の日傘をくるくるまわし
陽が照りながら雨のふる
あいるらんどのような田舎に行こう。
窓に映った自分の顔を道づれにして
湖水をわたり隧道(トンネル)をくぐり
珍しい顔の少女や牛の歩いている
あいるらんどのような田舎に行こう。
(丸山薫詩集「幼年」より、「汽車に乗って」引用)
 この詩はまさに幼年のころに読んだ名作だが、当方が異国への憧れを抱いたのも、この詩がきっかけだった。とくに「陽が照りながら雨のふる、、」という一節には強烈な印象を受けた。そんな場所がこの地球上にあるのかと、子供心にも好奇心を掻き立てられたものだった。しかし後年、アイルランドを訪れ、そんな
体験を1、2度したが、思い描いていたほどの感激は
なかった。“西洋”という異質の文化圏だったからだろ
うか。そこへいくと、同じ仏教文化圏の祭事であるミャンマーの水かけ祭りを初めて目撃したときには、な
ぜかこの詩の情景が真に迫ってきた。酷暑のカンカン照りの中で、放水の雨を浴びる祭りのワンシーンを目にすると、いつもこのフレーズが脳裏をよぎって仕方がない。

のどかな風情と素朴な生活に郷愁を 文明の利器よりも心の豊かさが大事

この国の方々を“田舎者”呼ばりする気は毛頭ないが、長らくミャンマーに暮らしていると、この詩を、“あいるらんど”から“みゃんまー”に置き換えて読んでみると、妙にしっくりくるようになったから不思議だ。
 ヤンゴンだけでも、湖の散策路をカラフルな日傘をさした女性が歩くのどかな光景を始終見かけるし、地方へ行けば牛や家畜と共存する素朴な人々に出会うのは日常だ。今回連載対談(P22,23)にお招きしたセイン博士は、昨年日本を訪れ「500年先を行っている」という感想をもった、と冗談交じりに述べたが、水祭り期間中に初めて日本へ行ったという知人も”100年先“とつぶやいた。しかしご両人とも、やはり一番落ち着くのはミャンマーだ、という結論をお出しになったのは言うまでもない。
 当然であろう。日本は確かに文明の利器は先端を行く。当方だって本音を申せば、今の仕事は、ここにいるよりあちらでやれればはるかに質や効率は上がるし、楽なことは確かだ。しかし利便性などという
ものは、インフラが整備されていけばいずれ時が解決してくれる。大事なことは、信仰心が厚く、強い家族の絆を有し、貧しい人々が社会的弱者をいたわるこの国の人々のような“心の豊かさ“をいつまでも持ち続けることではないか。だから千年だろうが万年先だろうが、最終的には「この国が一番」ということになるのだ。

いつも思いやりの心を忘れずに 日本人の奢った態度に落胆

当方も含めて、私たちは無意識のうちに先進国の
人間という奢りをちらつかせてはいないだろうか。だから、日ごろ注意はしていても、どうしても上目線でこの国を見てしまいがちだ。とくに初めて訪れた方は、価値観の違い、脆弱なインフラやマナーの悪さに戸惑い、思い通りに事が進まずに、ついイライラしてしまい、ひどい方は罵声を浴びせる。
 しかしミャンマー人にしても反省すべき点は少なくない。同じ国民なのに、自分たちで他人を侮蔑するような行動をとることが多いは何故なのか。たとえばレストランのスタッフに対して、用があるときに「チュッ、チュッ」と犬猫を呼ぶような仕草をすることに疑問は抱かないのか。そしてそれが人間に対する思いやりに欠けた行為だとどうして気がつかないのか。だからデリカシーのない日本人が得意気にこれを真似して悦に入ったりする。あちらではいつも「すみません」と呼ぶ習慣がついているのに、これをやる方に出会うと本当に落胆する。
 ミャンマーは、汽車に乗ってのんびり旅行したくなる国なのだ。私たちが忘れ去った素朴な風情がまだまだそこかしこに残る希少な国である。だから私は、いつまでも「みゃんまーのような“田舎”に行こう」と、心の中に書き留めておく。

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