◎今月の視点 他者をいたわるミャンマー人こそ、真の“文明人”ではないか

雨季が本格化した。朝方はまだいいが、午後から空模様が怪しくなり、何度かスコールに見舞われる。

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ミャンマーの田舎で歓待された女性  心優しきミャンマー人に触れる

雨季が本格化した。朝方はまだいいが、午後から空模様が怪しくなり、何度かスコールに見舞われる。カンカン照りになっても、いつ何時雨雲に変わるかわからない不安定な天候だ。
 ところで、先般、長らくNPO団体で活動する女性からこんな心温まる話を聞いた。調査活動でミャンマーの田舎を歩いていたら、ご自分の風体が余りにもひどく、同情されたのか、通リすがりの家の住人から突然声を掛けられ、ご飯をごちそうになった。その上、半ば強引に宿泊まで提供され、翌日その家の娘さんからロンジーを持っていきなさいと、プレゼントまでされたという。むろん、その日本女性は感激に胸震わせて別れたが、アジア、アフリカと長い間世界の途上国で奉仕活動を続けてきたが、こんな体験はミャンマーが初めてだったという。
 確かに、この国の人々は、困った人がいれば無視はしない。そしてなによリ様々な機会で寄付活動に参加し、自分より貧しい人のために行動する。特に地方へ行くとその心情がよくわかり、こちらが恐縮するほどの歓待を受ける。
 日本人のもてなしとやさしさも捨てたものではないが、仮に日本の田舎で、水知らず外国人がウロウロしていたとしても、果たして声をかけて泊めたりするだろうか。それを考えると、凄いことだと思う。

「文明の衝突」に見る西欧のエゴ 東アジアを野蛮と見る無知な感性

今から19年前の1996年に、米国のサミエル・ハンティントンなる政治学者とやらが「文明の衝突」
という著書を出し、資本主義と共産主義のイデオロギー冷戦時代が終息した後は、世界は宗教観を背景にした7つの文明に色分けされ、特に西欧とイスラム、儒教(中華)文明の対立になると、予言した。そして2011年に米国で同時多発テロが起き、さらにここ最近のアジアの某大国の覇権主義的な動きを見ていると、なるほどと思う節もあった。
 しかし、歴史的背景も違う欧州と米国を一括りにして「西欧文明」といったり、古来、中国文化の源流を汲む我が国を「日本文明」と個別に位置づけたり、この学者の主張には多少のこじつけや無理があるのは否めない。どうしても西欧対非西欧という図式に持ち込もうとする意図が見え隠れする。
 しかも納得がいかぬのは、モンゴルやタイ、チベットなどとともに、ミャンマーはどこの文明圏にも入っていないということだ。意図的なのか、無知なのかは知らぬが、これでは東アジアに大きな影響力を持つ仏教圏をカヤの外に置き、このあたりにはまともな文明がないと言わんばかりの主張である。

「文明」という語は能動的な名詞か ミャンマー人こそ真の文明人だ

「文明」とは「人知が進んで社会が開け、物心両面
で豊かな生活になること」と辞書には説明があり、その対義語には「未開」「野蛮」という言葉が羅列されている。しかし、そもそもそんな粗っぽい定義でこの地球を二分化することができるのか。
 早稲田大学商学部教授の八巻和彦先生は「文明の
衝突を超える視点」という評論の中で、「“文明”という語の原語であるフランス語の‘civilisation’という語を考察 してみれば、これは‘civiliser’「…を文明化す
る」という動詞から成立した名詞であり、状態を意味しているというよりも、「文明化する」(野蛮から脱け出させる)という作用とその結果という意味をもっている」とお書きになった。つまり「文明」という概念は、「他者を(自己の文明の影響下に)文明化する」という西洋人たちのしたたかな思惑を含む言葉と解釈できるが、当方もこの論説には全く同感である。
 今、先進国といわれる国々で繁栄している物質文明などは、所詮、突き詰めれば“銭カネ”をベースした繁栄に過ぎない。だからカネや物はあり余っているかもしれないが、そこに精神的な豊かさがあるかといえば、実に疑わしい。特に「文明国」と言われる国々や人間たちの中には、極めて自己中心的で、強欲な輩が少なくない。
 だから、前述の某政治学者がなんとこじつけようが、”物“の豊かさだけや表面的な華やかさだけで「文明」の云々など論じられない。人間としての真の心の豊かさやデリカシーを微塵も待たない民族を文明人などとは呼びたくもない。
 そう考えると、外国人を疑いもせずに自宅に招き入れ、もてなしてくれるミャンマー人の性善説に裏打ちされたピュアな生き方には敬服する。この姿こそある意味では文明人ではないのか、と思えてくる。
 家族の絆を大切にし、ご自分たちのテリトリーやレベルの中で幸せに生きる術を見出しているこの国の人々を「野蛮人」呼ばりすることだけは、断じて許さない。

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