◎導|A Leader's   中西 修 Osamu Nakanishi 「Win 日本語学校」 校長

第1回「幼少時から夢見た想いが“日本語学校”開設で現実化」

目次

    ミャンマー(ビルマ)との初めての出会いは、小学校時代でした。小説「ビルマの竪琴」を読み感動したことでビルマという国を意識するようになりました。中学校のとき、友達と「国探しゲーム」というものを考案して、友達とよく遊んでいました。自分が国の名前を挙げ、地図帳から早く探し当てた人が勝ち、というゲームでした。このゲームをするうちに、ビルマという国が中国とインドの間に位置し、とても面白そうな国だということがわかり、さらに興味が深まりました。
     決定的にしたのは高校時代に、テレビでビルマ特集の番組を見たことです。あるビルマ女性が非常に流暢な日本語でビルマ料理を作りながら、国の紹介をしていました(その方はある日本人と結婚していて今でもヤンゴン市内に在住しています)。世界一のルビーや翡翠が採れる、チークなど天然資源が豊富、仏教国で国民が穏やか、日本人と顔が似ている、ビルマ語と日本語は大変似ている等々。そして130以上の民族と「美人が多い」という言葉にとても惹かれました。一方、将来親日的な国に住んでみたいと思うようになり、調べているうちに候補としてフィンランド、トルコ、台湾、そしてビルマが挙がりました。
     さらに、高校受験の際、受験する大学を決めるときに、「来年度、東京外国語大学でビルマ語学科が新設される」というニュースが入り、「これは神様の引き合わせ」と信じて一発でここを受験すると決めました。
     当時、ビルマはネーウイン議長によるビルマ式社会主義の体制でしたから、外国企業はほとんど入ることができませんでした。ですから、「ビルマ語を勉強しても将来役に立たないよ」「大学で勉強したことが無駄になるよ」と皆から言われていました。
     しかし、自分は「将来ビルマは必ず発展する」と信じていました。大学に入学したのが1981年で、当時根拠はありませんが10年以内に国が開ける、民主化されると予測していました。
     ミャンマーが実際に民主化されたのが2011年とすれば、ちょうど20年遅れで自分の予想が当たったことになります。

    大学を卒業した後、とにかくビルマとなんらかの関係のある企業に就職しようと努めました。そして、農業関係のメーカーと印刷会社でサラリーマンとして11年間勤めました。
     その間、実際にミャンマーに出張に行くことは1回しかありませんでしたが、ミャンマー語の能力が落ちないように東京在住のビルマ人とできるだけ交流し、ボランティアで日本語を教えたりしました。また、東京地方裁判所や検察庁でビルマ語通訳のアルバイトをしていました。当時は今ほどビルマ語が上手ではなかったのですが、度胸だけで仕事をこなしていたと思います。面会する検察官の中には大声で怒鳴る怖い人や逆にとても優しい人もいて、ドラマ「HERO」を見ると当時のことが思い出されます。
     その頃からミャンマー人に日本語を教えることが面白くなり、ミャンマーで日本語を教えてみようという気持ちが湧きました。ビルマ語を使って日本語を教えることにより、自分のビルマ語の能力が上がるのが実感でき嬉しく感じました。また、教わったミャンマー人の生徒も「先生の教え方はわかりやすい」とよく褒めてもらいました。
     1995年ごろ、ヤンゴン市内の日本語学校の実態を調査しました。当時、覚えているのは先生はミャンマー人で3ヶ月の講座で授業料が1,500チャットだったことです。日本円では1,500円程度です。しかし、日本人が教えている学校がないことがわかり、「もしかしてチャンスでは?」と思いました。

    当時のことが思い出されます。
     その頃からミャンマー人に日本語を教えることが面白くなり、ミャンマーで日本語を教えてみようという気持ちが湧きました。ビルマ語を使って日本語を教えることにより、自分のビルマ語の能力が上がるのが実感でき嬉しく感じました。また、教わったミャンマー人の生徒も「先生の教え方はわかりやすい」とよく褒めてもらいました。
     1995年ごろ、ヤンゴン市内の日本語学校の実態を調査しました。当時、覚えているのは先生はミャンマー人で3ヶ月の講座で授業料が1,500チャットだったことです。日本円では1,500円程度です。しかし、日本人が教えている学校がないことがわかり、「もしかしてチャンスでは?」と思いました。苦労話」をリクエストされますが、自分にとって苦労と言えることは何もなく、開校当初からどんどん生徒数が増え授業も順調に進み、一度も赤字になることがありませんでした。
     苦労と言えば、ミャンマーに定住し始めたばかりの頃、「事業が軌道に乗るまで教室の屋根裏部屋に住む」と自分で決めて実行したことでした。そして、1日の食費は100円以内を目標に毎日節約の日々。教室の屋根裏は高さが1メートルほどしかなく、這いながら移動し生活していました。周りにはネズミの糞、ゴキブリの集団。しかし、当時は何とも思わなかったのが不思議です。(今では我慢できないでしょう)
     また、胃腸がミャンマーの食事や油、水に慣れていないせいか、しょっちゅう下痢していました。単なる下痢ではなく脱水症状を伴う酷いものでした。しかし、これはミャンマー生活の洗礼と信じていたため何とも思いませんでした。高熱が出てダウンしたとき、ミャンマー人の翻訳の先生に授業を代行してもらいました。教室のちょうど真上に自分の寝床があるので、授業の様子がよく聞こえます。おかげで引継ぎ作業をせずに次の授業から復帰することができました。その頃、事務員の女子にお粥を買ってきてほしいと頼んでいました。この女子が今の妻になったのです。(続く)

    <プロフィール>
    1961年6月21日に広島県呉市生まれ。
    1980年3月 呉三津田高等学校卒業
    1986年3月 東京外国語大学ビルマ語学科卒業
    1986~91 広島の農業機械メーカー(サタケ)に勤務
    1991年  横浜の印刷会社(山縣印刷所)に入社
    1995年~1996年 マレーシアの印刷工場に出向
    1996年  同退社後
    1997年1月1日からヤンゴン市内で
    「ウイン日本語学校」を設立。
    校長として現在に至る

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